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を朢申しけれは尤以て神妙の事なりと仰あり
て御ゆるしを蒙りしかは《割書:德祖 猷祖御父子の|仰せありしといふ》
やかて登山し自らの力を以て興山寺の山上に
神宮拜殿寶庫鐘樓等を造り出して是よりして
毎月十七日には六十口の僧を供養して法事を
なし毎日に御本地藥師供養并に護摩の法を修
する事闕如なし是則寛永四年の事也
學侶行人爭論の始の事
正保元年の春應昌并に行人の僧徒等 東照宮
神前におひて灌頂曼荼羅供等の大法會を修し
て神威を永代に耀さん事を以て朢請ふ其年九
月應昌をめされ其請ふ所をゆるさる《割書:猷祖こと|に御感あ》
《割書:りしと|いふ》又御使を登山せしめられ一山の大衆に
其由を仰下さる《割書:御使は五味|金右衞門也》學侶僧徒あへて師
の旨に從はすして事終に行はれす同二年の春
學侶行人等の僧爭に及ふ《割書:是より先寛永十六年|興山寺庭儀灌頂の事》
《割書:に付て學侶の僧寶性院異論の事ありき終に此|時に至りて學侶行人とうの爭論起れるなり》
此年五月應昌入寂す八月又御使を以て山中を
鎭められ《割書:此度之御使は小堀遠江守|伏見より發向すといふ》學侶の僧寶
性院無量壽院并に應昌か弟子の僧立詮等同し
く江戸におひて蟄居せしめられ《割書:世の人逼塞と|申す事なり》
十一月かさねて御使登山して學侶行人兩派の
事を糺問せらる《割書:此度の御使は安藤右京進曾我|丹波守五味金右衞門林春齋等》
《割書:也此御使還りて學侶は公家のことく行人は武|家のことく聖方は町人の如きと申すを御感あ》