翻刻
【右丁】
信久父につき《割書:六万五千石をは|弟志摩守分知》延宝七年六月廿六日 大
和国郡山の城に移る《割書:八万|石》伊賀守源忠晴は 伊豆守信吉
の二男慶長十四年兄忠国同しく将軍家の御前にて
元服し御諱字賜ひ元和元年正月廿七日 叙爵す
寛永九年四月八日 御書院番頭と成同き十二年九月
六日大番頭にうつる慶安元年九月九日丹波国亀山の
城を給ひ《割書:三万八|千石》寛文七年閏二月九日致仕入道して忠山
と号し同九年三月廿三日卒す七十二歳その二男
玄蕃頭忠晴家ゆつられて後伊賀守に任ず
【左丁】
松平 長沢
右衛門太夫源正綱は 和泉入道殿の御弟備中守久親の後
胤にて甚右衛門正次の子《割書:これを長沢の松平といふ|一説に久親は信光の御子と云》実は大河内金兵衛
秀綱か二男徳川殿の 仰によりて正次のよつきになりし也
此秀綱と申は源三位入道 頼政の孫源太夫判官兼綱の
三男大河内源太 顕綱か末葉也 治承四年高倉の宮の
御事ありし時頼政兼綱うち死す源太顕綱年わつかに
二才になりしをその母むつきの中にかくして尾張
国中島といふ所におち下り又三河国額田の郡大河内
といふ所にうつり住顕綱成人の後 大河内源太と