翻刻
【右丁】
名のりこれより子孫三河国に住す金兵衛秀綱は顕
綱か十一代の孫と申也秀綱徳川殿に仕へ奉て遠江
国稗原の地を領し入道のゝち休心とそ号しけり
正綱十七歳より 徳川殿にちかくめしつかはれ常に
御側をはなれす《割書:近習出頭人と|いひし也》慶長五年関か原の戦に
したかひ同き八年三月 叙爵し大坂両度の戦にも
大御所北の御陣に したかふ大御所薨し給ひし後
左大臣家の御時に至て 三代につかへ奉り 凡天下郡国
の吏勢貢賦の結解をつかさとり 要副の職に居る
終に一事の淹滞なし寛永十九年十一月三日初て勘定
【左丁】
頭と云職おかれて伊丹播磨守康勝酒井 紀伊守忠吉
松浦内蔵允正友等三人につかさとらしめらる是正勝が
年来一人してつかさとりし所也《割書:寛永の日記に見えたり按するに|正綱か晩年に伊丹播磨と三人》
《割書:して事を行ひしとみへし諸役人帳に御勘定頭の|下にはじめに右衛門太夫播磨守二人をのせしは誤也》かく夙夜奉公の
労をつくせる程に恩賞行はるゝ事もたび〳〵に及ひ
所領あまた知行し《割書:相模国甘縄伊豆国|本目にて二万石の地》慶安元年六月
廿二日に卒す其子佐渡守利綱備前守隆綱に父か所領
わかち賜ひ佐渡守利綱ほとなく卒し備前守隆綱
家をつき万治二年二月廿一日御奏者の事を承る
伊豆守源信綱は右衛門太夫正綱か子実は大河内金兵衛