翻刻
【右丁】
慶安二年三月十五日に卒す 美作守勝俊勝成か男
十七歳にして父と共に大坂に向ひふたゝび兵起りしに
道明寺の 合戦に 十八歳にて 高名し 明る七日 天王寺
よりおしよせ敵の 多勢をかけやぶり追つめ〳〵うつ程に
天満の川におつかふて首あまたうつとりぬ寛永十五年
の春父と共に有馬の城を攻やぶり 一番に旗をたつ
同き十九年に従四位下に叙し明暦元年二月廿日 五十
八歳にて 卒す 其子日向守 勝貞はしめ備前守に任
し祖父と父とに従て有馬の城を責し時 とし纔に
十五歳明暦元年 十二月廿八日 日向守になり 寛文
【左丁】
二年十月廿九日 三十八歳にて卒す其子民部勝慶つく
《割書:のちに|美作守》
隼人正源忠清は 和泉守の末子也慶長七年春大納言殿
に《割書:台徳院殿|の御事》つけられ御書院番頭となり 叙爵して御奏
者の事を兼ぬ大坂初度の軍に忠清か 手の人々青山
伯耆守忠俊か手の人々と互に先を争ふ明れは元和元年
五月七日の合戦に互に先をこさせしと争ひすゝみ戦し
ほとに両人か手にうち死の人々おほかりきされは軍終りて
も功をあらそふ事やますして大御所の御裁断をそ仰き
ける同二年四月三日大御所御違例すてに 事急なるに