翻刻
【右丁】
越中守源定綱は隠岐守定勝の三男也慶長元年三郎
四郎と申ていまた幼なかりし時荒川二郎九郎か養子と
なる同き四年十二月七日荒川伏見の御館にて死す荒
川か家従等荒川か一族して其家つかすべきよしを頻り
にうつたへ申けれは大方殿聞し召荒川か三郎四郎を子と
して既に四年を経たりしに今に至て家従等かかく申 ̄ス
こそ心得ねと仰けれは 徳川殿三郎四郎なんそ荒川か嗣
たる事をねがはんや彼か成人のゝちは彼所帯よりはなを
あまたの地領すべきもの也と 仰らるゝにそ大方殿の御心も
とけにける同き七年十一月三郎四郎十二歳にして《割書:十一歳|か》
【左丁】
掛川の城を出て関東に下り本多佐渡守正信をたのみ
大御所に見参すべきよしを望申けれは頓て御前にめし
正信をもつて将軍家にましつかはさるへき由をおほせらる
九年初て下総国山川の地下し給ひ《割書:五千|石》十年に叙爵し
越中守に任し十五年七月所領の地倍し賜《割書:一万|石》大坂前
後の軍に御書院番頭として手の人々に軍させみつから
よき武者二騎きつておとし郎従等にも首十七きらせて献る
《割書:此時に|廿四才か》元和五年遠江国懸川城を賜ひ《割書:三万石また|三万五千石共》寛永二年
正月十一日山城の淀の城築きて定綱に賜り《割書:四万石または|三万五千石とも》
同き十年美濃国 大柿の城に移り《割書:六万|石》明る十一年十一月