伊那市×みんなで翻刻

コレクション: 内藤家資料 (1) 2

藩翰譜(二・三) - 翻刻

藩翰譜(二・三) - ページ 8

ページ: 8

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【右丁】 にて家子郎等八十五人おなし枕にうち死す主殿頭 忠利は此家忠か嫡子也父がうち死せし時はいまだ 又八郎と申て関東の御陣にしたかひて小美【ママ】川の城を まもる明る慶長六年二月深溝を給てふたゝひ累代 相伝の地を領す《割書:一万|石》同九年の夏叙爵し十七年十一月 六日吉田の城を賜《割書:三万|石》忠利が弟を庄九郎忠一といふ 将軍家につかふ大坂の兵ふたゝひ起る時同隷共に 申しけるは此度の軍事終らは天下ふたゝひ兵革 の事あるべからす忠一将軍の先陣にしたかひまいら せしこそ幸ひなれかならすさきかけして 父祖の 【左丁】 忠死につくへきものをといひけるか五月七日の戦に 申せしにたかはすまつさきかけ生年二十六歳にして うち死をぞとけにける 好景より忠一 に至るまて 父子相続て四代まて 徳川殿の御ために みなうち 死をとけし事 類すくなき次第也 主殿頭忠利 寛永九年五月五日に 卒しその子 主殿頭忠房 つき此年七月廿一日刈屋の城に移る《割書:三万|石》慶安二年 二月廿八日丹波国 福地山の 城に移る《割書:四万五|千石》寛文 九年六月八日 肥前国 島原の城にうつる《割書:六万五千九百|石七斗八升八合》 同き十二年八月五日長崎表下知状をくだし賜りぬ