翻刻
【右丁】
にて家子郎等八十五人おなし枕にうち死す主殿頭
忠利は此家忠か嫡子也父がうち死せし時はいまだ
又八郎と申て関東の御陣にしたかひて小美【ママ】川の城を
まもる明る慶長六年二月深溝を給てふたゝひ累代
相伝の地を領す《割書:一万|石》同九年の夏叙爵し十七年十一月
六日吉田の城を賜《割書:三万|石》忠利が弟を庄九郎忠一といふ
将軍家につかふ大坂の兵ふたゝひ起る時同隷共に
申しけるは此度の軍事終らは天下ふたゝひ兵革
の事あるべからす忠一将軍の先陣にしたかひまいら
せしこそ幸ひなれかならすさきかけして 父祖の
【左丁】
忠死につくへきものをといひけるか五月七日の戦に
申せしにたかはすまつさきかけ生年二十六歳にして
うち死をぞとけにける 好景より忠一 に至るまて
父子相続て四代まて 徳川殿の御ために みなうち
死をとけし事 類すくなき次第也 主殿頭忠利
寛永九年五月五日に 卒しその子 主殿頭忠房
つき此年七月廿一日刈屋の城に移る《割書:三万|石》慶安二年
二月廿八日丹波国 福地山の 城に移る《割書:四万五|千石》寛文
九年六月八日 肥前国 島原の城にうつる《割書:六万五千九百|石七斗八升八合》
同き十二年八月五日長崎表下知状をくだし賜りぬ