翻刻
【右丁】
なしうもうたてくも有。さやうのさもしき
事は思ひともよりさふらはす【注①】なといへは。かゝ
いふやう。今(いま)こそ其方(そのはう)もわかれのかなしき侭(まゝ)
にさやうにのたまふとも。一日も此 世(よ)にたゝすみ
侍るうちは。あるそてはふるもふらるれなき
袖のなみたにしつむ身のとりをきかねて
もかくごし給はぬこそはかなけれなと。色(いろ)々
に申けれとも本(もと)より竹斎を湯(ゆ)のそこ水(みつ)の
そこまてもと思ひこみたる。女なれはいかて
心のうつるべき。一じゆのかけ【注②】にやどるも。一世なら
【左丁】
ぬえにしと聞(きけ)はまして。年(とし)月そひまいらせし事
なれはためあしかれとや思ふへき、其 後(のち)はさし
うづふき、【注③】念仏(ねんぶつ)のみ申し。しか〳〵のこたへもせさ
りしかはかゝ心に思ふやう。とかく此人とかたら
ひあはせたる分(ぶん)にては。いつがいつまてもぜに
になる事あるまし。しよせんそれかしばかり
竹斎 老(らう)の宿所(しゆくしよ)へ参(まい)り。此人のいへるなとかこ
つけ”事して。一分にてもねだれとらはやと思(おもふ)
心をしるへとして。はる〳〵の道(みち)をこへ。竹斎の
宿所につきものまうさんと申しける、竹斎 折(をり)
【注① 「思ひとも寄らず」の丁寧な言い方。思いもよらず。】
【注② 「一樹の陰」=仏教のたとえで、見知らぬ旅人同士がたまたま同じ木の陰に宿るというような、現世におけるかりそめの間柄。】
【注③ さしうつぶし=「さし」は接頭語。うつぶしはうつむくに同じ。濁点の位置がずれている。】