翻刻
【右丁】
をよらぬはなかりけり。かゝりけるところに
あるしのおきな。年(とし)よりのくせとして。ねもせて
あかす折節(おりふし)きぬたの音(をと)にゆめさめて。これもまた
物おもふ袖の露(つゆ)。ちゝにくたくるはかり也あるし
二人のね物かたりを聞(きゝ)。我もむかしは男(おとこ)山男
といはれし身なりしか。いかなる宿世(しゆくせ)のむくひや
らん今こそかやうになりぬもの。いで此まれ
人をなぐさめんと。同じ比なるをんなをいざ
なひてうしさかづきたづさへ。ついまつ【注①】に火
をともし。竹斎かとのゐせし。おくのでい【注②】
【左丁】
へぞいりにける。にらみの介こはふしぎ成(なる)
事どもなり。つたへきく此宿(このしゆく)は。盗(ぬす)人 多(をゝ)き
所(ところ)なりと思ひねたる所をずんどたち。し
りざし【注➂】かたくさしかため。壱尺三寸【注④】をくつ
ろげ。【注⑤】声(こゑ)あららかにとがめたり。ちくさいは
すこしもさばくけしきもなく。有為転(うゐてん)
変(べん)のゆめの世(よ)に。たれあつて百年を過(すご)さん
せばき心よりして見れは。我と人とにへだて
有。さとれは人家(にんか)へだてなし。よしぬす人
にてもあらばあれ来りたがる人をとゞめんもよ
【注① 続松=たいまつ(松明)のこと。ツギマツの音便形という。】
【注② 出居=寝殿造りに設けられた居間兼来客接待用の部屋。のちには座敷の意。】
【注③ 遣り戸、戸障子などを閉めたあと、開かない様にはすかいに差しておく棒。つっかい棒。】
【注④ ⦅刃渡りが一尺三寸(約四〇㎝)あるところから⦆懐剣の異称。】
【注⑤ かたくしまっているものをゆるめる。】