翻刻
【右丁】
しなし【注①】こなたへ来り給へや。さりながらその
方も仕合(しあわせ)あしき人成。とてもまさなき【注②】わざ
するならば。たのしき人をこそ□【うヵ】ちとりもし
給はで。いかなれはこのするすみ【注➂】なる身に。心
をかけ給ふそやといへはあるじはいやさやうの
ものにては候はず。あけさせ給へといふを。に
らみの介猶も心ゆかすかたなかりしを
竹斎またいふやう。いやふるき語(ことば)にもうら
むるものは其(その)声(こゑ)かなしといへる事あり
唯(たゞ)今(いま)の物こし。盗(ぬす)人にてもよもあらしとて
【左丁】
みつからたちて戸をひらけは。ぬす人にて
はあらずして。あるしふうふのものてう
しにさかづきとりそへ。竹斎がたびのつかれ
をなくさめける。竹斎なのめならず【注④】よろ
こひ。有しむかしの事どもかたり侍れは。ある
じものこす心なく。それがしもいにしへは此
所(ところ)にて名(な)あるものにて候か。をさなき時(とき)より
父母(ふも)にをくれそれより後(のち)。あはれともいふへき
人はおもほえて。身もいたつらになりはて
て。少ものゝ心をしれりしより。いかなる事
【注① よしなし=方法がない。】
【注② 正無き=正常でない】
【注➂ 体一つしかないこと。裸一貫で、他に何も持たないこと。】
【注④ 普通でない。格別である。】