翻刻
【右丁】
主従(しう〴〵)はゆめのうちに、ゆめのさめたる心ちし
て。幽霊(ゆうれい)出離(しゆつり)【注①】生死(しやうじ)頓証(とんせう)【證】【注②】菩提(ぼだい)と打づして。
あしにまかすかならひとて。江じりのさとに
つきにけり。此 里(さと)のかたはら。田の中 ̄ニ すこし
き池(いけ)あり。このいけのはたに人あまたあつ
まるを立よりたづぬれは。これは即(すなはち)むかし
文禄(ぶんろく)の比(ころ)かとよ。里(さと)人の女(をんな)あまり ̄ニ しつとの
ふかきゆへ下(しも)につかへるをんなにも。つらく
あたり。おつとにもつねにむかひ火(ひ)。作(つく)り
ふすべものしなどせし。しうねさ【注➂】にやしゝて
【左丁】
のちも此ほりに。たましゐとゞまり。猶 執着(しうじやく)
のなみにしづみ。うかみ【浮かみ】もやらぬ身となり
今がいまにも。うば〳〵とよぶ人あれは。かきり
もなく。あはだつとこそかたりけれ。よした【吉田】
なかぬままりこの宿(しゆく)。ひもしさやあたま
もなのめうつの山。つゝのほそ道(みち)心ほそ。
我いらんとする道(みち)はうそぐらさ【注④】よ。むかし
在原(ありはら)の中将(ちうじやう)このところにいたりて。ゆめにも
人にあはぬなりけりとよみ給へば。実(げに)用心(ようじん)あ
しき所とおほえたり、にらみの介 相(あひ)かまへ
【注① 世俗のわずらいを離れて雑念を断つこと。】
【注② たちどころに悟りに達すること。】
【注➂ 執念さ=形容詞しゅうねし(執念し)の語幹に接尾語「さ」の付いたもの。執着すること。】
【注④ うすぐらさ(薄暗さ)に同じ。】