翻刻
【右丁】
せし時利隆関東に伺公せしに将軍家仰下さるゝ旨有て
夜を日につきて我国に馳帰り軍勢を催し兵わかつて
尼か崎の城守らせ我身は大坂に向て軍す此年十二月廿八日に
其勧賞を行はる《割書:白銀三|千両》ふたゝひ兵起りしにうつとる所の首六百十一
を献る明る元和二年六月十三日三十三歳にて卒す嫡子
左少将光政《割書:童名|新太郎》としわつかに 三才にて慶長十六年
関東に下りて将軍家の見参に入《割書:国俊の御刀|を給ふと云》父卒する時九才
因幡伯耆を給て移る《割書:三十二|万石》元和九年四位の侍従寛永の
三年八月十九日左少将に任し大将軍家の御外孫女に
そひ参らす《割書:天寿院殿本多中務少輔に|そひ給ひまうけ給ひし所也》同九年六月十八日備前
【左丁】
国に移る此人周公孔子の道を尊て私に学校を設て物学ふ
事をすゝめしかは幾程もなく国中の士民悉くその風に化
す本朝此事絶て後人臣としてふたゝひ振起せし事めてたかり
けるためし也年既に老て国を譲て致仕す嫡子侍従兼
伊予守綱政承応二年に四位の侍従に任し寛文十二年
六月十日父のゆつりをうく《割書:三十|万石》
信濃守源恒能《割書:池田と|称す》光政の二男父の所領をわかち給ふ
《割書:開発田二|万五千石》
丹波守源政倫《割書:池田と|称す》光政の三男父の所領を分給ふ《割書:本領の内|一万五千石》
備後守源恒元《割書:松平と|称す》利隆の二男元和元年とし五歳初めて