翻刻
【右丁】
《割書:祐政の男 備前守 長政の娘也 大相国家の|御台所の御姉 常高院殿と申せし御事也》太閤薨したまひし
のち慶長四年 春 大坂の奉行等 徳川殿うしなひ
まいらせんとはかる 伏見の 御館無碍にあさま也しかは
高次おのか大津の城に むかへ奉らんとす 徳川殿大に
悦はせ給ひ 井伊侍従して 其芳志を 感せらる明れは
五年の秋上方の軍起り 大坂ちかき あたりにては
高次ひとり関東の方人して大津の城に楯籠り
徳川殿攻のほらせ給ふ程今一二日を待えすして 城終に
攻おとさるされは徳川殿も高次今しはし城を落され
さらんには近江国をはたまふへきもの也と深く 惜ませ
【左丁】
給ひけり此年その賞として若狭国に 越前の敦賀郡
そへて給ひ若狭守になさる《割書:九万二|千石》高次従四位侍従より
少将を歴て参議従三位に 至り 四十七歳にて
慶長十四年五月三日に卒す《割書:公卿補任を按するに高次の|参議に任せしは慶長九年の》
《割書:事也しかるに関か原の諸記に京極宰相と|しるせる事あやまれるなるへし》嫡男右少将忠高母は 贈
大納言長政卿第一の女也《割書:忠高朝臣は大猷院殿の|御外従弟にて 御姉むこ也》慶長七年
十三才にて元服し将軍家の御諱字賜り正五位下の侍従
兼若狭守になされ大坂の軍起りしに馳向て城をせむ
忠高の母常高院殿城中にまし〳〵て御中なをりの
事を執し申されけれは頓て事調りぬ幾程なくて