翻刻
【右丁】
軍又起り大御所なを常高院殿して東西御和睦の
事仰けれとも秀頼用ひ給はて五月七日城落ぬ忠高
からめ手に向ひうち取首 三百七を献らる寛永三年
九月六日四位の少将になされ同き十一年壬七月六日
出雲隠岐両国を給ふ《割書:廿四万石ことし又石見国 二万郡|邑規【智の誤記ヵ】郡の銀山を預けらると云》十四年
六月十二日卒す四十五才此忠高大相国家第二の姫君
にそひさ参らす北の方には御子なくて 妾の腹に
男子一人ありし将軍家御聴をはゝかりて始より
子なきよし申せしかはよつきなくて家絶ぬ《割書:忠高の北の方は|はつ姫君と》
《割書:申奉り忠高にさきたゝせ給ひ寛永七年三月四日に|かくれさせ給ひて興安院殿と申奉りしなり》
【左丁】
刑部少輔源高知【和ヵ】は忠高の舎弟主殿頭高政の男也実は
忠高の男とそ聞へけり《割書:忠高十八歳にして寛永六年|五月九日に卒せし也》【この注不審】忠高につき
なくて家絶しかは高知【和ヵ】をめし出されて播磨国竜野の
城を給ひ《割書:六万石余たゝし今は此|城なけれ共城地に准す》叙爵して 万治元年
讃岐国 丸亀の城に移る 寛文二年九月十三日四十四才
にして卒す子息 備中守 貴豊【盈】家をつく
侍従兼丹後守源高知は長門守高吉の二男参議高次
の弟也秀吉の御時近江国立蒲生郡の地を給る《割書:五千|石》修理
大夫になされ文禄元年舅毛利河内守秀頼か領せし
信濃国伊奈の郡を賜て《割書:一万石一説に八万石と不審|秀頼は武衛の末流といふ》四位の