翻刻
【右丁】
侍従になさる慶長五年の秋奥の景勝追討のため
に下向す上方の軍起りしかは 引返して美濃国
にて岐阜の城攻をとし関か原の合戦に多くの敵
うち破り兄高次か事心元なしとて御暇申 鞭鐙
あはせて馳のほり近江国長浜の在家に火をかけて
大津の城にいたりしに城をはすてに攻をとさる同十一月
丹後国を給て《割書:十二万|七千石》丹後守になされて此たひの功を
賞せらる高知 田辺の城をこほちて宮津の城を築
てすむ大坂前後の軍して元和六年八月十二日五十一歳
にして卒し子息三人に所領わかちゆつる侍従兼丹後守
【左丁】
高広は高知か五男なれと家をつく《割書:七万五千石○按するに|高広か母は故の毛利》
《割書:河内守秀頼か娘なり としいとけなけれと|嫡子たれは家をつきしなるへし》はしめ元和二年十二月
従五位下の侍従になされ《割書:系図ならひに武家補任におなし|父子双ひて侍従に任する事覚束なし》
家をつきてのち寛永三年八月 従四位下に 叙し
大御所の御外孫輝政参議の娘にあひ倡して男三人
をまうく年頃眼煩ふて承応三年四月廿三日所領子息
にゆつり入道して安智斎と号す其嫡子侍従兼丹後守
高国はしめ叙爵して山城守に任し寛永廿年十二月
従四位下に昇り家ゆつられし年侍従になされ丹後守を
かぬ寛文六年の四月父の入道高国か 無道の事とも