翻刻
【右丁】
《割書:うち笑て帰りしと云これをふるき人の許にて我およはぬ所をみつからしる|事まつかたしよき人見しる事尤かたし よき人のいふ事をよく用る事》
《割書:次にかたしこの三ッをあはせしは大知の流也|一豊はまことにたゝ人ならす といひし也》其後一豊先陣の人と
供に馳上つて所々の軍す一豊か功莫太也しかは此年土佐国を
給ひ土佐守に任す入部の後悦申のために大御所に参りし時
土佐国租税の歳領をとはせ給ひしに凡二十万二千六百斛と
申て候と答奉れは大に驚給ひさては思ふにも似ぬ小国也昔
長曾我部か家の富賑しほと又太閤かの家に入給ひし時元親か
まうけせし有さま其国の税入凡八百万斛計もやあらんすらん
とおもひしかは給ひしものをと仰らるに一豊感涙にたへすかたし
けなき事にそ思ひける同九年従四位下に叙す《割書:此日至正坊と云|茶入給ひし也》
【左丁】
十年五月十三日子息伏見に参り初て将軍家に見参す又
対馬守に任し大御所の聟君になさる《割書:御姪松平隠岐守定勝の女を養君|となさる此日両御所より彼父子に》
《割書:御刀を|賜ふ》此年九月廿日一豊卒す六十才其子侍従土佐守忠義《割書:はしめ|対馬守》実は
一豊か弟修理亮康豊か嫡男家継し後慶長十五年十二月廿四日
将軍家御家号御諱字賜て従四位下土佐守になさる《割書:御刀を|賜ふ》大坂
の軍終し時軍散して後馳参り寛永三年八月侍従に任《割書:ス》
明暦二年七月三日子息等に所領わかちゆつりて致仕し《割書:三男|遠江守》
《割書:一安にわかちし所分明ならす万治三年六月四日|廿五才にて卒すと云子なくして家絶しにや》寛文四年十一月廿四日
七十三歳にて卒す侍従兼対馬守忠豊忠義の嫡子母は
大御所の御養女承応元年従四位下に叙し父か家ゆつ