伊那市×みんなで翻刻

コレクション: 内藤家資料 (1) 2

藩翰譜(七・上) - 翻刻

藩翰譜(七・上) - ページ 54

ページ: 54

翻刻

【右丁】 初直政秀政か女にそふて雅楽助直清をもうくその外孫 也けれは家をつかす三十郎直寄は母賤しけれは年長しぬれと よつきとはせす直寄童より太閤の御所にめしかはる朝 鮮の事起りし後直寄十六才の時に至て毛利右馬頭輝元に つきて望申せしは抑仰をかうふりて朝鮮にゆき     道にたへすあはれ直寄も一度御使を承らはやと申 けれは望申所神妙也と仰下され慶長三年秀治越後 国を給ひし時に及て三十郎直寄丹後守に任せられかの国の 目代になされて坂戸の城を領す《割書:殿下より一万石を給ひ秀治又一万|石をあたへ合て二万石を領す》 同しき五年の秋東西 軍起りし時に当国は上杉か代々 【左丁】 領せし国なれは上杉の催促にしたかひ所々に賊徒起りて 下倉の城をせむ八月二日丹後守直寄か手勢引くし後巻 し五百余人首きらせみつからも太刀打して首をとり 同き二日四日市の城をうち二百余人か首切て徳川殿 御父子に参らす御書共給て其功を賞せらる《割書:此功よつて|二万石給り》 《割書:あはせて四万石を領すといふ説|あり実記には見へす覚束なし》同十一年左衛門督秀治卒し越後守 忠俊つく十三年監物直政死して嫡男雅楽助直清 父につきて監物と名のる直清直寄母同しからされは 兄弟の間むつましからす父なくなりてのち相論の 事起りて明る十四年直寄坂戸をさつて関東に