翻刻
たくひにもあらんかなと思へは古郷恋しくて不覚の涙に
/咽(ムセ)ひけり弟共水主は何の心そしらね共暫の別たに
悲しみて涙を袖に懸てそ立にける扨しも有へき
事ならねは船共は佐井大畑を出船して順風に帆を
上たり我も宿より出船の帆影の見ゆる迄岩の上へ
あかりさらはの声も遠けれは扇をひらき笠をあけ
暫く泣てそ立にけるやあ是は不覚なり迚死日に至
ては妻子珍宝及ひ高位も更に不随親兄弟もいら
はこそ勇はかうになると聞と思ひ返して其まゝに急き
宿へたち帰り旅人や亭主にも/暇乞(イトマコヒ)して本の/田名部(タナベ)へそ
出るける扨も旅の装束は袷一ツに古羽織二歩にもたら
ぬ遣金廿日あまりの旅の空何としてかは行へきそ天下の
公事をすへき身の此体にてはいかならん我身なからも
腹筋や然るに京大津の見世売衆か聞付扨々其方は
/歩行(カチ)にて国へ上るとや我は/脚絆(キヤハン)わらんぢかけ人は
もゝひき笠合羽手拭煙草とくるゝ程にはや〳〵歴々
の男となる一両日は旅の装束拵へて其後暇を乞ひて
八月十五日田名部の宿をそ立にける扨道すからの名所