翻刻
【右丁】
なりしとあり今天保四年癸巳の七月ごろより当十月迄の直段は百文
に付六合なれば一升百六十四文にあたれりしかあるときは天明のきゝんのせつ
黒羽□【辺】の相場に格外の相違もなければ人々よく〳〵つゝしみて壱文た
り共 無益(むやく)の銭をつひやすことをやめ少々づゝも貯へものを心がくるやう
に工夫すべし此こと昔よりいろ〳〵と世話やかれし人もあれども兎角
貯へのことを守るものなしそれといふもおのれをはじめ太平の御
代にうまれいで御恩沢(こおんたく)を蒙(かふむ)るありがたさ食にとぼしきほどの
くらしは誰かれもしたことなければ米はいつできるものやら麦はいつ頃
まくものやらそんなことは夢中にて飢饉(ききん)の事ははなしにきくのみ
にて昔はありて今はなきやうにおもふ人もあるべけれどきゝんは天
地の病にして人にとりては此上もなき大病なりされば今年豊作
なればとて来年凶作なるまじとはいふべからず爰において貯へものゝ
【左丁】
てあて大一肝要也末に精(くは)しくいだせり此貯へのことは田舎にてはさもある
べけれど江戸にてはできぬこと也といへる人あれど以の外の心えちがひと
いふべしいかにも麦.粟.ひえ゛大豆.小豆.の類を俵にてかこひおくことは田舎
にあらざればできぬことなるべけれどそは田舎にても俵にて沢山にかこひ
おくことは中以上の農家ならでは出来(でき)ぬこと也食物を貯へおきてきゝんの
備にせんにはさほどにむづかしきわけにはあらじ大家は大家小家は小家
にて身分相応にできる事なり先二三人 暮(くら)しのとぼしき家なら
ば一日に拾六文弐拾四文と法を立(たて)て其銭にて荒布(あらめ).ひじき.昆布.大豆.
小豆.するめ.麦.割(わり).のたぐひ何にても心におもひつきし虫にならざるやう
の食物をかんがへ日〴〵調へ貯ふるときはいつとなく自然にいろ〳〵なる
食類たまりて飢渇(きかつ)をしのぐの手あてとなるべしさはあれ人情(にんじやう)と
して鮥(まぐろ)の指身(さしみ)で酒を一合のみ鰻(うなぎ)の蒲焼(かばやき)で茶漬飯をくふをば何とも
【虫損部は、東京大学総合図書館蔵本を参照し注記】