翻刻
【右丁】
あはてゝかけ出(いだ)しければ小遣銭(こつかひぜに)の手あてもなくいかゞはせんと皆々かほ
を見合(みあはせ)しがふと此薬の懐中にあるをおもひいだし四人して二ッ三ッづゝ
用ひながら歩(あゆ)みける其内くさ〴〵のはなしに時をうつしおもはずも
夜九ッごろに宿(やど)へかへりぬるが途中(とちゆう)にて腹へりたるも今は格別のことにも
あらずして各ふしどにいりてうちふしぬ此ころはおのれ杉浦請馬
先生の塾にありて駿河台(するがだい)鈴木町にぞ居(をり)ける翌日(よく )めさめてみな〳〵いへる
はさても夕のくすりは実(まこと)に奇薬也よほど空腹(くうふく)にて苦(くる)しかりけるがあの
くすりを服してより何となく気力いでしこゝちにて腹へりたるをもわ
すれし也とて各其 霊薬(れいやく)なるを感心せり是はこれ文化四年八月廿日
のことにしておのれ廿一歳のときなり天保四年を去ること廿七年前也
これよりして此くすりの飢(うゑ)をたすくることを深(ふか)くえとくし遠(ゑん)
路(ろ)へゆく人または常に旅行する人などにあたへて試(こゝろ)むるにいかにもその
【左丁】
しるしあるよしおひ〳〵きゝ及べりさはあれ太平(たいへい)の御代(みよ)のありがた
さは豊作(ほうさく)年々うちつゞきて民のかまどはにぎはひければ薬力をかり
て飢(うゑ)を凌(しの)ぐのうれひはなし今年(ことし)たま〳〵米穀(べいこく)高直なるはいはゆる
天地のわづらひにして人にとりては大病なればいかにも身をつゝしみおごり
をはぶきておのれ〳〵が職分(しよくぶん)を大切に守り出精すべきことなり常に美(び)
食にふける人などは速に心をあらため麁食(そしよく)を用ふべきこと也中以上のく
らしの人は米穀少々あがりしぐらひは何共おもふまじけれどそれにて
は天の道にたがひて行末(ゆくすゑ)ならずあしかるべしおのれがえゝうの食をも
とむるのあまりあらば夫にて困民(こんみん)を救はゞいかばかりの陰徳(いんとく)ならんかお
のれが知れる人に相応に文字もよめていと怜悧(れいり)なる人なるが殊の
外に美食をこのみ朝めしより菜好(さいこのみ)をして年中くふことのみ苦(くる)
しむ人あり酒は一滴( てき)ものまずなりにもふりにもかまはず家もかなり