← 前のページ
ページ 29 / 192
次のページ →
翻刻
から。恩(おん)を著(き)。恩(おん)に著(き)するの理(ことはり)にて某(それがし)が意(い)にあらず。深夜(しんや)といひ旅人(りよじん)の身(み)
殊(こと)に足弱(あしよわ)を伴(ともなひ)道(みち)をいそげば。ひまどりがたし。御縁(こえん)もあらばかさねて相(あひ)
見(まみ)ゆべしといひすてゝ。もとの木蔭(こかげ)に走(はし)り入(いれ)ば。女は涙(なみだ)を流(なが)しつゝ。金を
押(おし)いたゞきてとりをさめ。しばらく跡(あと)を伏拝(ふしをがみ)もと来(き)し道(みち)へ急(いそ)ぎ去(ゆき)ぬ
三 胸中(きやうちう)の機関(きくわん)
さても右近(うこん)の馬場(ばゞ)の館(やかた)におきては。其夜(そのよ)藤波(ふぢなみ)が妹(いもと)於竜(おりう)。姉(あね)の死骸(しがい)を
見(み)つけて大に驚(おどろ)き。声(こへ)たてゝよばゝりければ。侍宿(とのい)の武士等(ぶしら)馳(はせ)集(あつま)り。
大に騒動(そうだう)し。いそがはしく主君(しゆくん)の前(まへ)に出(いで)て。しか〴〵と告(つげ)きこへければ。
桂之助(かつらのすけ)あはてまどひて那裏(かしこ)に到(いた)り。藤波(ふぢなみ)が死骸(しがい)を点検(てんけん)して。且(かつ)驚(おどろ)
き且(かつ)悲(かなし)み。何者(なにもの)の所為(しよゐ)なるやと疑(うた)ひ。先(まつ)於竜(おりう)をめして事(こと)の様(やう)を問(とひ)けるに
佐々良(さゝら)三八郎が殺(ころ)したるよしを告(こく)る折(をり)しも。笹野(さゝの)蟹蔵(かにそう)いそかはしく
馳来(はせきた)り。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)紛失(ふんじつ)いたし候と申す。桂之助(かつらのすけ)益(ます〳〵)驚(おどろ)き。館中(くわんちう)をこまや
かに穿鑿(せんさく)あるに。三八郎 家財(かざい)は捨(すて)おき。妻子(さいし)を携(たづさへ)て逃去(にげさり)。長谷部(はせべの)雲六(うんろく)
も出奔(しゆつほん)の体(てい)なりと申しけれ。ばさては彼等(かれら)両人いひ合(あは)せて。百蟹(ひやくがい)の巻(まき)
物(もの)を盗取(ぬすみとり)たるを。藤波(ふぢなみ)に見とがめられ。せんかたなく害(かい)し去(さり)たるにうたがひ
なし。足弱(あしよわ)をともなひたればよも遠(とほ)くは走(はし)るまじ。追人(おひて)をつかはしはやく
捕(とら)へしむべしと命じけるにぞ。四方(しはう)に手分(てわけ)して追行(おひゆき)けり。かくて翌(よく)
朝(ちやう)にいたり。追人等(おひてのもの)立(たち)かへり。いづくへ逃去(にげさり)候やらん。影(かげ)だに見へずと告(つげ)けれ
ば。桂之助(かつらのすけ)只(たゞ)あきれたるばかりなり。これさへ不盧(ふりよ)の騒動(そうどう)なるに。取次(とりつぎ)の
侍士(さふらひ)まかりいで。御国元(おんくにもと)より。執権(しつけん)不破(ふは)道犬(だうけん)自身(じしん)にのぼられ。只今(たゞいま)著(ちやく)
駕(が)いたされ候と告(つぐ)る。桂之助(かつらのすけ)眉(まゆ)をしはめ先(さき)だつて何(なに)の沙汰(さた)もなきに。
道犬(だうけん)みづから上京(じやうきやう)せしは。いとも心得(こゝろえ)ざる事(こと)なり。何事(なにごと)やらんと心安(こゝろやす)からず。