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麗(り)はその系図(けいづ)一(いつ)に出(いで)たるなり。其(その)後孫(こうそん)三十 代(たい)義慈王(きしわう)が時(とき)に至(いたつ)て。唐(とう)のために
亡(ほろぼ)さるゝとき。唐(とう)は百済(ひやくさい)の故地(こち)を分(わか)つて。熊津(ゆうしん)。馬韓(ばかん)。東明(とうめい)。金漣(きんれん)。徳安(とくあん)。五所(ごしよ)の
都督(とゝく)を置(おい)て。各(おの〳〵)其下(そのしも)の州県(しうけん)を統(すべ)しめ其中(そのなか)の棟梁(とうりやう)を撰(えら)んで。是(これ)を軍令(くんれい)の本(もと)
となしける。
《振り仮名:唐新羅二兵亡_二百済を_一|とうしんらにへいひやくさいをうつ》事(こと)
爰(こゝ)に新羅(しんら)の太宗王(たいそうわう)。六 年(ねん)百済(ひやくさい)の義慈王(ぎしわう)十九 年(ねん)に当(あた)つて。百済国(ひやくさいこく)の王城(わうじやう)には
さま〳〵の物化(ものゝけ)あやしき事(こと)を示(しめ)すは。此国(このくに)の亡(ほろ)ぶべき前兆(せんてう)とは後(のち)にぞ思(おも)ひ合(あは)せけ
る。これよりさき年々(ねん〳〵)に新羅(しんら)百済(ひやくさい)両国(りやうこく)の争(あらそ)ひあれどもやゝもすれば新羅(しんら)の軍(ぐん)
よはくして百済(ひやくさい)の勝(かち)となれば。新羅(しんら)これを憂(うれ)ひくるしみ。諸臣(しよしん)と議(ぎ)して唐朝(とうてう)
に使(つかひ)をつかはし。援兵(えんへい)を請(こ)ひたりけり。此時(このとき)唐(とう)の高宗(かうそう)顕慶(けんけい)四 年(ねん)の事(こと)なりける。