翻刻
【右丁】
《割書:さらはそのあやまりなきに似て 候歟といひけれは忠興大にいかつて父か命|にそむくの条はなはたもつて 奇怪也向後の事 長く対面に及ふへか》
《割書:らすとてたちまちに 勘当すこれより忠興父にも子にもよからぬ|中とそなりて けるそのゝち与一郎は 妻にむかひ 我おもはすは》
《割書:御身のためかゝる不孝の身となりぬかくても猶そひまいらせて有ん|には世の人忠隆か妻にまよひてこそ父に思ひかへたれと思はん事恥かし》
《割書:又忠隆すてに 貧賤の身と なりたり妻の兄加賀中納言か大名なる|をたよりにこそ なといはれんも 口惜しとてつゐに妻を出し入道》
《割書:し休無とそ|号しけり》かくて天下こと〳〵く徳川殿に帰して後慶長八
年の春征夷将軍の宣旨かうふらせたまふ此時忠興も
参議に 任し従四位下に叙す《割書:公卿補任を按するに忠興か参議|に任せし事 慶長九年也また》
《割書:武家補任には従三位|と しるす 不審》されは此時草創の業は既に成ぬれとも
柳営の議はいまた備らす こゝに彼藤孝入道は 世々の
公方に仕へてしかも当時の台職なり丹後の国を出しより
【左丁】
都に登り尋仁和寺のほとりなる所にかすかなる栖居して籠り
居たり徳川殿此人につきてこそ前代の事をも 訪ひ当世
の礼をも講すへけれとて永井右近大夫直勝を御使として
武家の儀式こと〳〵くにうけ伝へさせ給ひたりされは当代
の礼節は内々此入道の定申されし事ともおほかりしとそ承
はる《割書:藤孝入道 玄旨慶長十五年八月廿日に卒すといふたゝし|其行年 いくつと いふ事 いまたしらすなを尋ぬへし》
大坂の軍起りし時島津陸奥守家久海路おたやかならす
とて参らさりしかは島津かのほらさらんうちは忠興等も
参るへからさるよし仰ありけれは参らす子息内記忠利は
参りたりふたゝひ兵起りし時忠興兵少々引くして