翻刻
【右丁】
馳上り将軍家の御手にしたかつて首二十をきつて
献る《割書:忠興か二男の長岡与五郎某は大坂につかへし一方の大将を承る|五月七日天王寺の戦みかた散々にうちなされ手の者皆をち》
《割書:うせて寄手又城中にせめ入は力なく都のほとりに|落ゆきしを父忠興たつね出し首切て参らせし也》元和五年十
二月忠興致仕入道し 宗立と号し三斎と称しけり
正保二年十二月朔日八十二歳にて卒す左少将兼越
中守忠利は忠興か三男はしめ内記と申ける関ヶ原
の合戦に 大御所の御側にさふらひ慶長十年四月
五日侍従従五位下になされ大坂の軍に したかひ父の
ゆつりうけて越中守を兼て従四位下に のほり寛永
三年八月十九日左少将に任し同き九年十月四日肥後
【左丁】
国に豊後の国鶴崎の地添て下し給て熊本の城に移りす住
《割書:五十四|万石》同き十四年の冬肥前の国島原の賊徒起る筑紫の大名
軍勢をひきゐてせむ明れは十五年二月二十七日忠利先をあら
そひて二三の城を攻やふり明る廿八日にはまつさきにつめの
城にせめ入て天草四郎時貞か首をば忠利か手にそとり
たりける《割書:四郎は賊|の張本也》十八年三月十七日五十六歳にて卒す
嫡子侍従光尚寛永十二年将軍家の御前にて 元服
御諱の字賜り従四位下侍従兼肥後守になされ父卒して
家をつき慶安二年十二月廿六日三十二才にて卒して
嫡子六丸父につき承応二年十二月十一日御前にて元服し