伊那市×みんなで翻刻

コレクション: 内藤家資料 (1) 2

藩翰譜(七・下) - 翻刻

藩翰譜(七・下) - ページ 29

ページ: 29

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【右丁】 馳上り将軍家の御手にしたかつて首二十をきつて 献る《割書:忠興か二男の長岡与五郎某は大坂につかへし一方の大将を承る|五月七日天王寺の戦みかた散々にうちなされ手の者皆をち》 《割書:うせて寄手又城中にせめ入は力なく都のほとりに|落ゆきしを父忠興たつね出し首切て参らせし也》元和五年十 二月忠興致仕入道し 宗立と号し三斎と称しけり 正保二年十二月朔日八十二歳にて卒す左少将兼越 中守忠利は忠興か三男はしめ内記と申ける関ヶ原 の合戦に 大御所の御側にさふらひ慶長十年四月 五日侍従従五位下になされ大坂の軍に したかひ父の ゆつりうけて越中守を兼て従四位下に のほり寛永 三年八月十九日左少将に任し同き九年十月四日肥後 【左丁】 国に豊後の国鶴崎の地添て下し給て熊本の城に移りす住 《割書:五十四|万石》同き十四年の冬肥前の国島原の賊徒起る筑紫の大名 軍勢をひきゐてせむ明れは十五年二月二十七日忠利先をあら そひて二三の城を攻やふり明る廿八日にはまつさきにつめの 城にせめ入て天草四郎時貞か首をば忠利か手にそとり たりける《割書:四郎は賊|の張本也》十八年三月十七日五十六歳にて卒す 嫡子侍従光尚寛永十二年将軍家の御前にて 元服 御諱の字賜り従四位下侍従兼肥後守になされ父卒して 家をつき慶安二年十二月廿六日三十二才にて卒して 嫡子六丸父につき承応二年十二月十一日御前にて元服し