翻刻
【右丁】
御諱字を給り従四位下侍従兼越中守になされ綱利とて
名乗ける
中務少輔源立孝は参議忠興朝臣の二男なり肥後の国
宇土の城をわかち給ふ《割書:三万|石》正保二年閏五月 十一日に
卒すその子帯刀行孝家をつき承応二年十二月
廿八日丹後守に 任す
若狭守源利重肥後守光高【ママ】の二男父卒して後所領
わかち給ふ《割書:三万五千石 所領|の地 名しらす》万治三年十二月廿八日叙爵
玄蕃頭源興元藤孝入道の 二男也 童名は頓五郎生年
十四才にして兄忠興と共に河内の国片岡の城の先かけし
【左丁】
能首取て城を落せしより 一生の高名数多し藤孝丹後
に移りし時父に属して峯山の城に有小田原滅しとき
忠興と共に韮山の城を攻落し兄弟又文禄のはしめ
朝鮮に向て晋州の城をせめて名を外国にほとこしぬ
慶長五年関ゕ原の合戦に東国の御方して丹波の国
福地【「山」脱ヵ】城を攻落し忠興豊前の国に移りし時 興元も
その国に移り慶長十四年に常陸の国茂木の地を給ひ
《割書:一万|石》大坂陣起りし時将軍家の御手にしたかひふたゝひ
軍起りしに 将軍の仰にて 酒井雅楽頭 忠世か軍勢下
知して戦はせをのか手の兵に首 十四きらせて献る其