翻刻
【右丁】
大明の和親やふれて後嘉明又藤堂《割書:佐渡守|高虎》脇坂九鬼等と
朝鮮におし渡り かの統制使元均か兵船海の面におひ
たゝしう漕うかむ藤堂人々と評定して 戦んとす
七月十五日嘉明藤堂さきかけして 巨済漆川島に戦
ひ散々にうちやふり船とも余多乗取て 太閤の御感
にそあつかりける《割書:此舟軍の事異国本朝の書につたふる所異多|しまつ太閤記には文禄二年六月廿四日の》
《割書:戦はかりをしるすこれすなはち文禄二年二月廿一日の戦の事也豊臣|家譜には慶長二年の春の事とす 又脇坂の碑銘には七月七日とす》
《割書:共に林道春撰ある所にしてかく異なる事おほつかなし たゝ大河内|秀元か記に しるす所 もつともつまひらか也かれか記はみつから大田》
《割書:飛騨守一吉にしたかひ彼国にむかつて事のやうをしるす所也慶長|二年の戦たる事は 一定也此年三月十八日本朝の人々 太閤の 仰を》
《割書:承り五月廿二日より 大坂をたちて七月七日に釜山港につき同き|月十五日に此舟軍はありしといふ しかれは豊臣家譜に春の事の》
【左丁】
《割書:やうに見へしいかにそや脇坂か碑の文は月はおなし日はおほつかなし|朝鮮の書を考るに 万暦廿五年八月七日に此事ありしやうにしるす》
《割書:彼万暦廿五年は則我朝の慶長二年に あたれり 八月七日たりと|いふは日は脇坂碑に同しけれとも月は異なり 按するに本朝の人々南京》
《割書:の城を攻んとて此年八月四日に全羅道 水【ママ】礼に至りこゝにとゝまる事|六十日同き十日に水礼をたつて南京にむかふといふ嘉明も同しく》
《割書:かしこにむかひ城をせめをとして首五十一をきれりしかれは朝鮮の書|のつたふる所も あやまれりまして 大明の書に此舟軍は 十月の事と》
《割書:しるせりたゝしき|日をはしるされす》同き八月十五日 海陸のみかた一手になつて
南京の城を攻おとす嘉明か手に首五十一を切たり此年十
二月の末大明の経理楊鎬提督麻貴多勢をひき
ゐて蔚山の城をせむ加藤肥後守清正等か防き戦ふ
事十余ヶ日 明れは慶長三年正月六日に至て御方
の人々うしろまきせしによつてかたき悉くに やふれ