伊那市×みんなで翻刻

コレクション: 内藤家資料 (1) 2

藩翰譜(七・下) - 翻刻

藩翰譜(七・下) - ページ 37

ページ: 37

翻刻

【右丁】 明利に二本松の城を給ひ《割書:三万|石》聟の松下石見守長綱三春 の城を給て《割書:五万|石》嘉明に属せらる《割書:嘉明四十万石の外二万石の地を|あつけられ明利長綱か所領合》 《割書:て五十万|石と云也》同き八年九月十二日嘉明六十九歳にして卒す 式部少輔明成家をつき寛永十一年七月十六日従四位下 の侍従になされ《割書:武家補任には元|従四位下と有》同き廿年五月二日 遁世 して所領の地悉く收公せらる《割書:明成遁世せし事は父か時に家|の老に堀主水といふものあり》 《割書:けり明成か父に似ずして世の人あさけりわらふ政事なとありしを|彼堀事にふれてはいさむる事ありけん主従の間不快なりき堀主水》 《割書:か従者と あるものゝ 従者と 相論の事出来たり 堀か従者非拠たるよし|を明成に断す まことは堀か従者の申す所理なりけれは堀かさねて是》 《割書:をうつたふる故に 堀勘当せられて あまつさへ職事をうははる|堀やすからぬ事に思ひ 舎弟 多賀井又八郎真鍋子兵衛と三人宗徒》 《割書:の郎等八人妻子徒類すへて 三百余人寛永十六年四月十六日寅の刻|はかりに若松の城を 出て中野といふ所にて 鉄砲をはなち辰の時計りに》 【左丁】 《割書:倉兼川に至り 往来の橋やきたちて さりぬ 時【明の誤ヵ】也此由を聞て討手を|さしむけしかと 討もらしぬ 堀鎌倉に しのひいたりしに討手向ふと》 《割書:聞えしかは高野山におもむく 明成使者を 立てすみやかにからめ|とつて出さるへきよしをいはせけるに此山には来らぬ由を答ふ明成》 《割書:大にいかつておのか所領にかへて 彼家人を追補せん事をうつたへて|既に軍兵を高野山にさしむけんとす 堀此山にもたまりかねて紀伊殿》 《割書:の御領にかくれゐたり明成やかて紀伊殿に此由を申て討手をさしむく|堀かくと聞て関東に忍ひ下り一封の書をたてまつりてをのれ》 《割書:罪なきよしを申ひらく左大臣家此よし聞し召申所 ことはりあるに|似たれとも身 既にかの家のつかさとして 初に兵を挙て 城をさり》 《割書:火をはなつて橋をやく君臣の礼を失ひ国家の 法をみたる 其罪|かろからすとて明成かこふによつて兄弟三人を給る明成大によろこひ》 《割書:同き十八年三月堀兄弟三人を芝浦の 別業にして 誅戮す 既に|所領に申かへ家人をねかひのまゝに下し給て誅しぬる上はかくても》 《割書:あるへき事ならねは 同き二十年に 至て身の病多く国務に堪す|かるかゆへに所領の地こと〳〵くに返したてまつるよしを申して》 《割書:遁世せし也○嘉明か三男は監物明重といひて兄の明成か家の|おとなしてありしか家ほろひて後京にこもりゐて死せしといふ》 同き六月将軍家嘉明か家絶なん事をあはれませ給ひ