翻刻
【右丁】
伏見の御館に参り此由を告申 又大坂に帰て御方すへき
人々を催し二心なき御方人なりしかは此後度々御大事に
及はせ給ふへき事ありしかと何の御つゝかも わたり給はす
奥の景勝中納言御退治の時高虎したかひ参らせて
下向す其御跡にて 上方の軍起りしかは高虎又先陣
の人々と打連て馳上る 此時御晦乞申すとて密に申
けるは抑此度御方に参て先陣承り馳向ふ大名多くは
故大閤の恩かうふつたる輩にて 殊には当時妻や子
とも大坂にとゝめ置て候得は心のおく はかりかたし相
かまへて高虎か催し奉らさらん内は御上りあらん事
【左丁】
しかるへからすと申てのほる御方の人々岐阜の城攻おとし
江戸の合戦して大柿の城にむかひ赤坂の宿に陣とりし
後高虎早馬を参らせて急き御上りあるへしと告申す
関か原の戦には先陣にあつて松尾の山に向ふ凡此年月
かれは徳川殿に大忠のもの也けれは此年慶長五年十一月
彼本国にして余多の地加へ給ひ《割書:もとは八万石共七万石共|申す凡徳川殿の 御恩》
《割書:かうふりて二十万石を 領す此度|和泉守になれり いつの頃にや》同十一年備中国にて地加へ
らる《割書:城主譜に 二万|石の地といふ》十三年伊賀国 伊勢の地 添て給て
うつる《割書:凡二十三万九百六十石也 城主譜に此内伊予にて|二万石つけて今治の城領する事元の如しと云也》十四年
淡路の国の人々伊予の地にうつさる淡路の国をは