翻刻
【右丁】
《割書:といふ御哥に紺紙 金泥の 徒花 そへて 給ひしと云々|右按するに此説のことくは政宗か応永二年に卒せしといふこと》
《割書:おほつかなしまた新続古今集撰せられし事は後花園院永享の|はしめに飛鳥井 雅世の中納言勅をうけて 同き十年八月廿三日》
《割書:に奏覧を経て同十一年に返納せられ訖ぬ 政宗卒せし といふ|応永二年より 三十三年の後に初て此集撰すへきよしを勅せら》
《割書:れるを十年を経て後奏覧を経られぬ次には公方勝定院殿は|至徳三年二月十二日に御誕生ありて御とし 三十四歳正長元年》
《割書:正月十八日にかくれさせたまひぬ 応永二年の頃は御としわつかに|十歳にならせたまふかゝる御哥よませたまふへし共覚へすいふかし》
其子 兵部少輔 氏真その子大膳大夫持宗其子兵部少輔成宗
其子大膳大夫尚宗その子左京大夫植宗 其子左京大夫晴宗
其子左京大夫輝宗《割書:按するに代々公方の御諱|の字給りしと見へし》是すなはち中納言
政宗の父也輝宗はしめ子息二郎か元服の時先祖大膳
大夫政宗文武の名誉天下にかくれなかりきされは汝も
【左丁】
又あやかり参らせよとて政宗と名のらせ政宗十八歳の時
天正十二年十月家ゆつらる政宗初め米沢の城にあり明れは
十三年十月四日父輝宗同国二本松右京亮義隆か為に
討れ義隆又政宗か為に討る是より政宗隣国の敵と
戦てつゐに蘆名の家を滅し天正十六年六月の事
也会津《割書:四|郡》仙道《割書:七|郡》相領し天正十一年冬の事也黒川城に
移て威東北にふるふかゝる所に豊臣の秀吉関白の職に
任し王命をそむく国々を征伐すへしとて数十万騎の
軍勢東海東山北陸を経て関東に攻下り相模国北条か
領せし国々悉くにうちしたかへて頓て陸奥出羽の
【同 頭部欄外】
会津八郎
蘆名なり
仙道七郎と
云しは田村
の城主清顕
石川大和守
顕光 白川
の義近塩のゝ
松の大内備前
守定綱二本
松右京亮義
継岩城常陸
介須賀川
是なり