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始(はじめ)よと言終(いゝおは)り。翁(おきな)は別(わかれ)を告(つげ)て東方(とうばう)へ行去(ゆきさり)候ひき其(それ)より拙僧(せつそう)此(この)菴(あん)に住(ぢう)し春秋(はるあき)を
送(おく)る事二年に及(およべ)とも彼(かの)行睿(げうゑい)居士(こじ)敢(あへ)て帰(かへり)きたらず候ゆへ。余(あまり)に待(まち)わび所々(しよ〳〵)を尋
廻(めぐ)り候ひしに山(やま)科の東 牛尾(うしのを)山にて巌(いはほ)の上に老翁(らうおう)の履(はき)し沓(くつ)有(ある)を認(みとめ)候。茲(こゝ)に於(おいて)拙(せつ)
僧(そう)つら〳〵考(かんか)へ候は彼(かの)行睿居士と名告(なのり)し翁(おきな)は。観音(くわんおん)薩垂(さつた)【埵とあるところ】化身(けしん)にて。我に此
土地(とち)に道場(とうじやう)を開(ひら)【注①】かせ玉はんとの方便(はうべん)なりけりと始て悟(さと)り。此庵室へ立帰(たちかへ)り教(をしへ)に
任(まか)せ仏像(ふつそう)を刻(きざ)み寺院を建立(こんりう)せんと欲(ほつ)すれども。見給ふ如く年歴(としふり)たる老樹(らうじゆ)拙
僧が自力(じりき)に及(およぶ)べくもあらず。地形(ちげう)もまた樹木(じゅもく)陰森(いんしん)とし岩石 屹立(とがりたつ)【矻は誤記】て奈何(いかん)
ともする事 能(あた)はず只(たゞ)期(とき)のいたるを待んより外に施(ほどこ)すべき方便もなく。一向(ひたすら)に
観音経(くわんおんけう)と千手陀羅尼(せんじゆだらに)を誦(じゆ)して日を送り候ひしに。前夜(ぜんや)大いに風(かぜ)吹(ふき)強雨(がうう)降(ふり)
山(やま)鳴(なり)溪(たに)応(こたへ)震(しん)【注①】動(どう)する事 終夜(よもすがら)不止(やまず)暁方(あけがた)に漸(よふや)く風(かぜ)止(やみ)雨(あめ)収(おさま)り物音 静(しつま)り候
ゆへ今朝(こんてう)起出(おきいで)て見【注①】候へば樹木(じゆもく)悉(こと〴〵)く抜(ぬけ)仆(たを)れ。岩石(がんぜき)裂(さけ)碓(くたけ)【注②】て土地(とち)平面(たいらか)になり
【注① 文字の薄く消えている部分は別本により補填。】
【注② 碓は「うす」の意でくだける意はないが、「うす」からきた縁語で「くだける」意を連想したものか】