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去々年(おとゞし)京都(きやうと)へ奉公(はうこう)に上(のぼ)し。身(み)は鰥(やもを)にて死期(しご)の来(きた)るを待(まつ)のみなり。世渡(よわたり)の産業(たつき)
とは言(いひ)ながら老年(おひとし)よりて旦夕(あけくれ)鱗虫(うろくず)の命(いのち)を取(とる)は。罪(つみ)深(ふか)き事(わざ)かなと。心に悔(くや)まぬ日
とてもなし。然(しかる)に不計(はからず)和殿(わどの)の命(いのち)を助(たす)けしは。身(み)にとりて善(よき)滅罪(つみほろぼし)なり。些少(すこし)ながら
路銭(ろせん)も借(かす)べし。又 京(きやう)には知音(しるべ)の者(もの)もあれば。其者(そのもの)の方(かた)へ進(しん)ずべきあいだ
彼者(かのもの)の方(かた)へ往(ゆき)て奉公(はうこう)の義(ぎ)を商議(だんかふ)せられよと。最(いと)懇切(ねんごろ)に諫(いさ)め諭(さと)し。湯(ゆ)も沸(わき)たり
とて玄吾(げんご)に麦飯(ばくはん)を勧(すゝ)め。其身(そのみ)も小者(こもの)もともに食(しよく)し。釣(つり)たる鮒(ふな)を炙(あぶりもの)として酒(さけ)をも飲(のま)
しめ。其夜(そのよ)は主客(しゆかく)三人 枕(まくら)を交(まじへ)て歇(やす)みけり。玄吾(げんご)枕(まくら)に着(つけ)ども多(おほ)く心神(しん〴〵)を労(らう)したれ
ば更(さら)に夢(ゆめ)も結(むす)び得(え)ず。寐(ね)られぬ儘(まゝ)【侭は略字】に来(き)し方(かた)行末(ゆくすへ)を左(と)や右(かく)惟(おも)ひつゞくるうち。夜(よ)
は仄々(ほの〴〵)と明(あけ)わたりければ。主翁(あるじ)も起(おき)て小者(こもの)を呼(よび)覚(さま)し。朝餉(あさげ)の粥(かゆ)を煮させけるに程(ほど)
なく粥(かゆ)も熟(むめ)けるゆへ三人 是(これ)を食(しよく)し畢(おは)り。偖(さて)主翁(あるじ)は些(ちと)の銀銭(ぎんせん)をとり出(いだ)して玄吾(げんご)
に与(あた)へ。また一 通(つう)の文書(てがみ)をしたゝめて渡(わた)し。此(この)文書(てがみ)を懐中(くわいちう)して京(きやう)へ上(のぼ)り北白川(きたしらかは)へ尋(たづね)行(ゆき)