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翻刻
の額(がく)は嵯峨天皇(さがてんわう)御 手(て)づから龍管(りうくわん)を揮(ふる)ひて宸筆(しんひつ)を下(くだ)し給ひ。北方(ほつほう)の額(がく)は橘(たちばな)の大(だい)
夫(ぶ)逸成(はやなり)に勅(ちよく)して書(かゝ)せ給ひ。南面(なんめん)三 門(もん)ならびに応天(おうてん)門の額(がく)は空海(くうかい)に書(しよ)せしむべし
と勅詔(ちよくぜう)下(くだ)りければ。空海和尚(くうかいおせう)謹(つゝし)んで勅命(ちよくめい)に応(おう)じ。筆(ふで)を染(そめ)て四面(しめん)の額(がく)を書(かき)給ふ
に。其(その)筆勢(ひつせい)鸞鳳(らんほうの)碧落(へきらく)に翔(かけ)るがごとく龍螭(りうちの)蒼海(さうかい)に游(およぐ)に似(に)て。張芝(てうし)。義氏(ぎし)【羲之とあるところ】も
妙(めう)を奪(うば)はれ鐘繇(しようよう)。蔡邕(さいゆう)【「さいよう」とあるところ】も愧(はぢ)を懐(いだく)べくぞ見えける。然(しかる)に如何(いか)なる事にや応(おう)
天門の額(がく)をうちて後(のち)諸人(しよにん)是(これ)を見れば。応(おう)の字(じ)の上の円点(ゑんてん)を書落(かきおと)されたりけれ
ば。諸人(しよにん)密(ひそか)に私語(さゝやき)空海(くうかい)ほどの能書(のふじよ)も応(おう)の字(じ)の点(てん)を落(おと)されたり。空海(くうかい)も筆(ふで)の誤(あやま)
りありと誹謗(ひはう)しけるにぞ。和尚(おしやう)の弟子達(でしたち)聞(きゝ)づらく思(おも)ひ。師(し)に向(むか)ひて応天(おうてん)門の応(おう)
の字(じ)に点(てん)を打(うち)給はざりしは御所存(こしよぞん)ありての御事(おんこと)にやと問(とひ)ければ。空海師(くうかいし)微笑(びしやう)し
給ひ何(なに)の所存(しよぞん)もあらず。後(あと)より点(てん)を加(くはへ)んと思(おもひ)しにはたと失念(しつねん)せしなり。されども已(すで)
に掛(かけ)たる額(がく)をとり卸(おろ)させんも煩(わづら)はし。其儘(そのまゝ)【侭は略字】にて点(てん)を加(くはふ)べしとて。硯(すゞり)筆(ふんで)を持(もた)しめて