← 前のページ
ページ 358 / 521
次のページ →
翻刻
色(いろ)浅黒(あさぐろ)く。鼻(はな)高(たか)く眼(め)秀(ひいで)。満身(まんしん)肥(こへ)太(ふと)りて是(これ)も手脚(てあし)に力瘤(ちからこぶ)あまた顕(あらは)れ。天晴(あつはれ)の
力者(りきしや)と見えたり。上下の看宦(けんぶつ)何方(いづれ)が勝(かち)何方(いづれ)が負(まく)べきと片唾(かたづ)を呑(のみ)息(いき)を詰(つめ)て見る内(うち)
に頓(やが)て両人(りようにん)互(たがひ)に立上(たちあが)り寄(よせ)つはなれつ暫(しば)し手先(てさき)にて争(あらそ)ふよと見る間(ま)もなく。双方(そうはう)
無手(むづ)と引組(ひつくみ)押(おし)つ戻(もど)しつ揉合(もみあふ)程(ほど)に。両士(りやうし)とも希代(きたい)の力者(りきしや)なれば。大地(だいち)をどう〳〵と踏鳴(ふみなら)
し互(たがひ)の汗(あせ)は滝(たき)のごとく曳(ゑい)や声(こゑ)を出(いだ)し半時(はんとき)ばかり挑(いど)み合(あひ)けれども。いまだ勝負(しやうぶ)分(わか)ざり
ければ。諸人(しよにん)酔(ゑゝ)るがごとく手(て)に汗(あせ)握(にぎつ)て瞬(またゝき)もせず見る所(ところ)に。太鳧(たける)が運(うん)や尽(つき)たりけん。蹶(け)
速(はや)の腕(かいな)を捆(はかみ)し片腕(かたうで)汗(あせ)に辷(すべ)りてほぐれをとり。思(おもは)ずよろめく所を早(はや)く蹶速は付入(つけいり)て。雙(そう)
身(しん)の力(ちから)を腕(うで)に入(いれ)。大喝(たいかつ)して噇(どう)ど突(つき)ければ。さしもの小勝間(こかつま)二三 間(げん)後(うしろ)へ飜(ひるが)へり仆(たをれ)けるにぞ。蹶(け)
速(はや)透(すか)さず飛(とび)かゝり。鉄脚(かなずね)を揚(あげ)て太鳧(たける)が脇肚(ひはら)を続(つゞけ)さまに三脚(みあし)ばかり踏(ふみ)ける程(ほど)に。何(なに)
かは以(もつ)て堪(たま)るべき。忽(たちま)ち肋骨(あばらぼね)を踏(ふみ)砕(くだ)かれ。太鳧は其儘(そのまゝ)二 言(ごん)とも言(いは)ず庭上(ていせう)にて死(し)したり
けり。帝(みかど)は是(これ)を睿覧(ゑいらん)在(ましま)し。憎(にく)しと思召(おぼしめす)蹶速 勝負(しやうぶ)に勝(かち)しかば。睿慮(ゑいりよ)悦(よろこ)び給はず