← 前のページ
ページ 417 / 521
次のページ →
翻刻
ども恐(おそれ)ながら君(きみ)いまだ御 老年(らうねん)と申にも候はず。春宮(とうぐう)は猶(なを)御 幼年(ようねん)にわたらせ玉へは。御位(みくらゐ)
を譲(ゆずら)せ玉はん事 然(しか)るべからず候。君(きみ)御多病(ごたびやう)にて在(ましま)すとも。朝政(てうせい)の義(ぎ)は臣(しん)等(ら)ともかくも執(とり)
計(はか)らひ候べし。今しばらく世(よ)を治(おさめ)させ給へと諫奏(かんそう)ありけるにより。帝(みかど)勅許(ちよくきよ)在(ましま)して御譲(ごじやう)
位(ゐ)の御 沙汰(さた)は止(やみ)にけり。今年(こんねん)六月 道真卿(みちざねけう)五十才にならせ給へば。其(その)御 年賀(ねんが)を祝(しゆく)し
進(まいら)せんとて門人(もんじん)達(たち)貴(たかき)も賎(いやしき)も吉祥院(きちじやういん)といふ寺に参会(さんくわい)し。詩哥(しいか)の題(だい)を探(さぐ)りて慶賀(けいが)
の意(い)を述(のべ)。酒宴(しゆえん)を催(もよほ)して延年(えんねん)を賀(が)しけるに。一人の老翁(らうおう)藁沓(わらぐつ)はき行纏(はゞき)しめたるが一裹(ひとつゝみ)
の沙金(しやきん)と文(ふみ)とを持来(もちきた)り。賀莚(がえん)の文台(ぶんだい)の上に置(おき)何(なに)とも言(いは)で立去(たちさり)けるにぞ。人々(ひと〴〵)不審(ふしん)に
おもひ道真卿(みちざねけう)に斯(かく)と達(たつ)しければ。即(すなは)ち其(その)文(ふみ)を披(ひら)き見給ふに。其(その)文辞(ふみのことば)に。菅家(かんけ)の門人(もんじん)們(たち)
師(し)の知命(ちめい)を賀(が)せらるゝよし。因(よつ)て此(この)沙金(しやきん)を贈(おく)るなり。金(こがね)は思(おも)ふ心の軽(かる)からぬを表(へう)し。沙(いさご)は
寿(ことぶき)の数(かづ)限(かぎ)りなからん事を祈(いの)るしるしなりとあり。誰(た)が所為(しわざ)とも不知(しれざり)しが。後日(ごにち)に帝(みかど)の御
所為(しよゐ)なる事 相知(あひしれ)けり。誠(まこと)に御 贔屓(ひいき)の睿慮(ゑいりよ)の程(ほど)ぞ難有(ありがた)かりける。時(とき)に春宮(とうぐう)敦仁(あつひと)君(ぎみ)は