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樹(じゆ)の内(うち)梅(うめ)は一 夜(や)の中(うち)に誰(た)が抜取(ぬきとり)けん影(かげ)だに見えずなり桜(さくら)は枯果(かれはて)残(のこ)るは只(たゞ)松(まつ)のみ
なりと聞(きこ)えしかば。菅公(かんこう)嗟歎(さたん)し給ひ。詠(えい)じ給ふ御 歌(うた)に曰
梅(うめ)はとびさくらは枯(かる)る世(よ)の中に松(まつ)ばかりこそつれなかりけれ
斯(かく)詠(えい)じさせ給ひけるに。其(その)翌朝(よくてう)庭前(ていぜん)に一木(ひとき)の松(まつ)生(おひ)出たり辰音(たつおと)春彦(はるひこ)以下(いげ)の
人々又大いに怪(あやし)みよく〳〵見るに是も都(みやこ)紅梅殿(かうばいどの)の御 愛樹(あいじゆ)の松に幹(みき)も枝(えだ)ぶりも
彷彿(さもに)たれば菅公(かんこう)へ言上(まうしあげ)けるにぞ。公(こう)立(たち)出て見(み)給へば将是(まさしく)紅梅殿の松に見粉(みまが)ふ
べくもなければ奇異(きい)の思(おも)ひをなし給ひ。梅(うめ)とともに朝夕(あさゆふ)目(め)がれせず愛(あひ)【「あい」とあるところ】し給ひて
配所(はいしよ)の徒然(つれ〴〵)を慰(なぐさ)め給ひけり公(こう)の御 跡(あと)を追来(おひきたり)しを以て追松(おひまつ)と呼(よび)給ひしを後(のちの)
世(よ)にいたり何時(いつし)か老松(おひまつ)と文字を換(かへ)ける。斯(かく)て延喜(えんぎ)三年正月の末(すへ)つかたより菅公
御 異例(いれい)に染(そみ)させ給ひければ。辰音(たつおと)春彦(はるひこ)大いに駭(おどろ)き郡司(ぐんじ)秦民部(はだのみんぶ)と商議(しやうぎ)し
遠近(ゑんきん)に良医(りようい)を求(もとめ)て御 薬(くすり)を勧(すゝめ)奉り。神仏(しんぶつ)に祈誓(きせい)して日夜(にちや)御 本復(ほんぶく)を祈(いの)り