翻刻
【右丁】
寛文八年二月六十一歳にて卒す家人等か不法の事あつて
家絶へか【ママ】りしを別の義を以て子息大膳亮昌能に出羽国
山形の城を賜ふ《割書:九万石○これは 父忠昌の卒せし時家人杉浦右衛門兵衛|と云もの法をそむきて殉死(本ノマヽ)し 家老奥平内蔵允》
《割書:同隼人といふもの葬送のおりふし争論におよひ内蔵允腹きつて死す|かゝる事うちつゝき家中ものさはかしき事 多かりしかは也》
昌能寛文十一年七月七日に卒すよつきなくて外甥なれは
五島淡路守盛勝か二男の五歳なるを嗣とし小二郎昌章
名のる《割書:はしめ虎次郎|のちに美作守》下総守源忠明は信昌の四男大御所の御
外孫なれは次第に大名となつて慶長十五年七月廿一日伊勢
国亀山の城を領す 《割書:これよりさきの事 信昌の伝に|見ゆたゝし松平と称せらる》同十九年十月
六日京都の早馬駿河に来て大坂の兵起る由を申す又美濃
【左丁】
の国加納の城よりも飛脚到来して松平摂津守忠政去ぬる
二日に俄に卒すと申けれは舎弟なれは下総守忠明加納の
軍勢を引具して 大坂に馳むかふへし親父美作守が老後
の愁なに事かこれにしかすその城に留て守るへしと仰下され
さ ほ(る)【左に◦を付す】ほとに下総守忠明美濃国の大名の旗頭として先陣に
すゝみ大坂の城にをしよせ攻むふたゝひ兵起りしにも
おなしく美濃の軍勢引具して大和路よりをしよせ
合戦して首七十三きつて 献る其勧賞にことし元和元年
十一月廿八日所領の地あまたつけて大坂の城を守らせらる
《割書:十万石を領すたゝし此時は|大坂の城給りしやうにも聞ゆ》同五年 大和国郡山の城に移る《割書:十二|万石》