翻刻
【右丁】
を去て徳川殿に来りつかふ十二年の春北畠殿秀吉
朝臣と軍起る徳川殿氏次をめして汝か累代領せし
岩崎の城は尾張三河の境にて要害の所なれはすみやかに
馳向て守るへしと仰けれは氏次本領に帰る城かまへて
舎弟次郎助氏重に軍勢つけて守らせ我身は
小牧山の御陣にこそ参りけれ同き四月九日の朝
池田紀伊入道勝入まつ岩崎の城をせむ多勢に無勢
かなはすして氏重うたれて城おちぬ氏次此ほとりの
案内者なりしかは徳川殿の先陣し長湫のほとりに
馳向ひ上方の多勢をうち やふつて 池田父子を初と
【左丁】
として多くの敵うたれにけり同き六月蟹江の城に
むかひ外城を攻やふり手の者多く疵かうふる《割書:出丸二ッ|を落す》
ほとなく氏次ふたゝひ 北畠殿につかへて 伊勢の国
にして所領を賜ひ《割書:七千|石》同十八年信雄卿流されたま
ひし後徳川殿につかへ関東へ移給ひし時 武蔵の国にて
所領を賜ひ《割書:三千|石》関ヶ原の合戦には海道よりむかつて
徳川殿の先陣をかたむことしの冬三河の国伊保の地を
賜て《割書:一万|石》明れは慶長六年三月十九日年五十三歳にて
卒す其子勘介氏信父につき大坂の軍起りし時
水野日向守勝成と同しく天王寺より押寄て城をせめ