翻刻
【右丁】
《割書:氏綱をうむ又養父北条か孫女を氏綱にあはせて北条新九郎と名乗|らる我身入道して 早雲庵と号すと云々又伊勢の系図を按》
《割書:するに伊勢守貞親三人の男あり嫡子伊勢守貞宗これ金仙寺殿|の事也二男新九郎貞藤初め貞辰といふ相州の北条氏やしなふて》
《割書:子とすこれより北条と名のれり三男は兵庫頭貞職としるせり新編|纂図とことなるに似たれとも 其家の系図うたかふへからす小田原記の》
《割書:しるす所と伊勢の系図に異なれ共|大略はたかはさるに似たり》祖父氏綱父子氏康より氏政
に至て領する所の地八ヶ国武蔵【威】東海にふるふ事およそ
百余年豊臣の関白天下の事しろしめすにおよひてなひき
したかひ北陸道と越後より西は皆したかふ東海道にとつても
既に徳川殿としたしうなりたまへは駿河国より西は無為に
属す北条いまたしたかはねは相模の国より東の国には
王命も行れす此時氏政か国をは子息左京太夫氏直に
【左丁】
ゆつりみつからは截流斎【斉】と号し政務の事にあつからす此
氏直と申は徳川殿の聟君にてましませは関白もさすが
すみやかに逆犯の罪にも処しかたく大かたは事の体によつて
追討の事あるへきなと聞えけれは徳川殿よきにはからはせ
給ふによよつて関白の心とけたまひ天正十六年五月北条の
使者初て都にのほる此美濃守氏親をそへられたり徳川殿
よりも榊原式部少輔 康政つけて参らせるやかて氏政
上洛あるへきよしを宣ひなからその事もなく年月を経て
事の逆乱出来ぬれは関白大にいかり給ひ同き十八年の
春天下の軍勢を催促し東海東山北陸よりうつて下らせ