翻刻
【右丁】
には久秀まつさしちかへて死し候ひなんすとてゆき向ひ
事の由をのふ元網頓て鎧ぬきすて手の軍兵をもしりそけて
むかへ申けれは信長これより都へ上りたまひぬ《割書:按するに此後信長|徳川殿の御前に》
《割書:松永を召出し此老人は日本無双の男故将軍家を職し奉る 主の三好を|ほろほし又南都大仏殿に火をかく松永弾正忠これ也よく〳〵見させたまへと》
《割書:宣ひしに徳川殿帰らせ給ひちかくめしつかはるゝ人に松永か事信長の宣ふ|まてもなし世のしれる所なりさりなからかれは一度 信長のために たちまち》
《割書:命すてんよし申たりしものなるをとはかり仰られしは|この朽木谷にての松永かふるまひを仰られしとなり》かくて信長に
随ひ秀吉につかへて慶長の初に及て関ヶ原の軍起りし時
徳川殿に心をよせしかとも関より西こと〳〵く御かたきなり
しかは力なく 軍勢の催促に随ひ北国にむかふ心さしの
ほとをはかねてより関東に 告申ける九月四日松尾の山の
【左丁】
ふもとに陣とつて 明れは十五日関ヶ原の戦はしまると見へ
しに松尾の人々と同しくかたきにきつて入前後の敵を
防きかね上方の軍忽に破れてけり此後徳川殿に仕へ三人
の男子皆召仕はる大坂の兵起りし時元網か父子永井右近大夫
か手に属す再ひ兵起りしには仰を承りて久羅伽利を
守らせらる大御所隠れたまひし時に入道し牧斎と号し
年八十四才にて寛永九年に終りけり望請し所領悉
くに子息等に分あたふ嫡子 兵部少輔 宣綱二男与五郎
友綱三男は民部少輔 植綱なり 植綱十四歳の時元和四年
九月十一日左大臣家に召仕はれ同九年八月四日 叙爵し同