翻刻
のぼる此者 持病(ぢひやう)に癲(てん)狂あり。やねにて件(くたん)の病おこり。うん
といふ声に。おや驚人あはてゝ。水のきつけのとさはぐ。やう〳〵
正気(しやうき)はつきながら。おそれてのぼりはしを得ほりずこは。いかゞ
すべきと医師(いし)を頼(たの)めども大風に世上 騒動(さうどう)の最中(もなか)なれば
見まふくすしなし。此上は筍斎なりともと人をはしらす。
筍斎は今 内証(ないしやう)にひんのやまひ者。はやりいしや。りやう
ぢは。たんば已来(いらい)珍(めづら)しうはあり大風が家をまくるともおれが。や
ねではなしと。とつかはと見まふ。病人(ひやうにん)はやねにおります。是
は妙(めう)な所にゐる。おろしやれといへば。さればそのおるゝ事のなら
ぬをおろして下されよと次第(しだい)をかたる。筍斎はうづえに小首(こくび)
ひねりて。是によい薬があれど持あはせぬ残多しといへば。
亭主(ていしゆ)いづかたにある物でござるととへばみちのくにあるいなぶねと
いふ物じや。のぼつてからくだらぬといふ事がない。されば歌に
最(も)上川のぼればくだるいな船のいなにはあらて此月斗
などゝも読(よめ)りといへど。是は時の手にもあはずなどいひあへれば
筍斎 懐(ふところ)より万年ごよみ取出し。此子がとしはいくつぞととふ。
十六といへば打 頷(うなづき)。爰に寄(き)妙の薬(くすり)こそあれ。是々とて薬
箱より。古(ふる)き磁石(じしやく)をとり出し。はしごのもとにさし置て
子細(しさい)らし〱ひぢをはり。今の間(ま)に此薬。上なる子を。すいおろす
功(こう)ありといひのゝしるを。傍なる人いかなる薬にて候ぞととへば
されは此子十六金 性(しやう)也。琥珀(こはく)のちりをすい。磁石のかねをすふ
事是天 然(ねん)の妙(めう)なりき待給へと。時うつれどおるゝけしき