翻刻
是は岩屋(いはや)の不動坂(ふとうさか)。狂気の人の往還(わうくわん)也。其方たちも此道へは
きちかひの類(たぐひ)かと笑捨てとをれば。筍斎ねめ介 腹(はら)だちて。しら
ざる事を知ずとして問(とふ)を笑ふ己(おのれ)ら社。ちゑのくらまに迷(まよ)ふなれとつぶやき
つれがあれば三里もまはるくるま坂(ざか)
とはや此くるまを世 話(わ)にひけばねめ介
まんぢう峠(とうげ)あんの外(ほか)なり
と立帰り青なみを右に。みぞろか池(いけ)の水鳥(みづとり)をほしのゝさと
と詠(なかめ)行ば。市 原(はら)のゝ秋(あき)かぜにあなめ〳〵をいとふなる。屏風
坂こず村雨(むらさめ)に二の瀬(せ)の川や。水まして爰にさすらんきぶね
川さんせうの皮 杉皮(すきかは)にうそのかは迄(まで)越(こへ)々て何がしの寺につ
きぬ。仁王(にわう)門より七 曲(まかり)を凌(しのぎ)て。宝前に畏(かしこま)り。南無大悲多門天
我は親(をや)より隠(かくれ)なき。名医の誉(ほまれ)高(たか)けれど。只(たゞ)薮医師(やぶいし)のかぜ
あれて。内証(ないしやう)寒(さむく)なるまゝに。しかも火をふく力(ちから)なし。願(ねかはく)は然(しかる)へき
ふくをあたへ給はれと丹誠(たんせい)にぬかづくかゝる所へちさき百足(むかで)ひ
とつ筍斎か傍(そば)に這(はい)よる。忝なや御ふく下されぬととらへんと。す
れは。指(ゆび)さきをしかとさす。さゝれて指をかゝへなから祝(いはゐ)なをす
しつかりとさし下さるゝ御ふく哉百のおあしをつかはしめとて
といひて其 夜(よ)は堂前(だうぜん)に通夜(つや)しけり。暫(しばし)まどろむ枕(まくら)の上に。あ
らたなる霊夢(れいむ)をかうふる。汝(なんぢ)身(み)の貧(まつしき)を欲。我に祈(いのる)事誠あり
よつて此三つのはんじ物を示す。よく考(かんがへ)て仕合(しあわせ)せよ。行末な
をも守(まも)らんと。一 紙(し)を給はるとみて。夢(ゆめ)覚(さめ)ぬ。枕(まくら)をみればげにも
うつくしき筆(ふで)の跡(あと)にてかんなに書だる物三つあり