翻刻
近きに参内(さんだい)仕べきよし。しらする者あり。左あれは我ながら
身 持(もち)むつかし〱。其上下々の者どもが闇夜(あんや)に一 灯(とう)を消(け)し
たるやうにおもはん事も不便(ふびん)に存ひろく治(ぢ)を施(ほどこ)さんため
まだ宣下(せんげ)なき内に此江戸に下り侍るといへば。皆(みな)しなぬ計
に笑(わらひ)入て。いしやはさやうに在たき物なれ。さて都にて。す〲
れて珍敷(めつらしき)りやうぢはいかなる事か召れし。めづらしき手がら
かず〳〵にて空(そら)には覚え申さず乍(さり)_レ去(ながら)おもひ出るを申さば。
先一とせ山しろの西の岡(をか)と申所に狼(おほかめ)あれて人をくらひ。牛(ぎう)
馬(ば)を追(をい)まはす事。昼夜(ちうや)にかぎらず。忽(たちまち)くいころすあり。片輪(かたわ)
づきて逃(にげ)帰るあり。洛西(らくせい)の騒動(さうどう)なゝめならず。爰に牛(うし)が
瀬と申所の農民(のうみん)綿(わた)の畑(はた)にゐたるを件(くだん)の狼(おほかめ)。きそひ
来つて彼者の両 足(そく)をつけ根(ね)より只一口にくひ切て帰りければ。
尻(しり)より上計 死(しに)残る。隣(となり)の田より見付やれ〳〵といへとも甲斐(かい)
なし。妻子(さいし)なく〳〵半の死骸(しがい)を家に取いれなげく是は余(あまり)
にあへなきわさ也。当時の生薬師(いきやくし)筍斎にみせさせよと
迎(むかひ)に参つた。見舞(みまひ)て見るに。在し仕合いかにしても蘇生(よみがへ)る
やうなかりけれど。そこが流石(さすか)の上手(じやうず)何がな足一そくあらばと
庭(にはを)みれば。賤(しづ)が手わざの綿(わた)くりといふ物あり。此 足(あし)にむめの木
のふた股(また)なるをみつけて頓て是をぬきてかの喰切(くいきり)し口に
さしこみうへより薬(くすり)をのませて。祝言(ことぶき)の発句をいたした
くはれてもまたなる梅の木の実哉
として舌(した)もひかぬに彼者 忽(たちまち)起(おき)あがつて昔の足より。猶(なを)達者(たつしや)