翻刻
【右丁】
御孫女三河守殿の御娘秀就の家に入たまふ大坂の軍
起し時秀元秀就ともに関東より馳向ひ東西和睦
ありて後二人同く本国に帰りふたゝひ軍起りしに
秀元すみやかに馳参て軍す秀就は海路心に任せす
して軍散して後に参る寛永二年四月廿七日輝元
入道宗瑞年七十三歳にて卒す同き三年八月十九日
秀就少将に任す八年十月五日参議秀元秀就に家
をゆつる秀就国務を行ふ事凡廿一年五十七歳にして
慶安四年正月五日に卒《割書:秀就に御家号給ひし|事いつれの時かしらす》子息大膳大夫
綱廣承応二年十二月十一日元服し御諱字を給はり
【左丁】
従四位下に叙し侍従に任す《割書:御刀を給|といふ》
参議兼甲斐守大江秀元は元就の第五男穂田備中守
元清か男《割書:元清は備中国中山の城にあり|秀元は元清第二の男ともいふ也》はしめ元就卒して
嫡孫輝元家をつき天正十二年元春隆景備中の国に
いたり秀元かいまた宮松丸と申て年わつか五歳なるを
見て《割書:武家補任の秀元か卒年をもつてさかしまになすに|此とき六才成へきにやされはこれはかの伝記の説なり》
隆景このおさなき人の父元就に似たまひし事のあや
しさよいかさまたゝ人にはおはすへからす輝元いまた
よつきなし毛利の家つくへき人此人にや侍らんといひ
けれは舎兄元春我もさこそは存すれとて兄弟ともに