翻刻
【右丁】
かまへて主の島津と戦ふ同き七月徳川殿山口勘兵衛尉
直友を御使にて鏃二千暑衣百領忠恒に給つて軍の
やうをとはせ給ひ九月又寺沢志摩守廣高して嶋津に
加勢させ又山口を差下され主従か間をやはらけさせ給へ
は源次郎降参しぬ明れは五年の秋兵庫頭入道義弘
石田三成にくみし美濃国関か原に出むかひ東国の
人々と軍し義弘散々に戦なつてすてにうち死
せんとしけるに猶子中務太夫豊久入道をいさめ我身は
とつて返し時うつるまて戦てうち死す《割書:一説に舎弟と|いふいふかし》
《割書:島津家譜に中務家久は天正十五年薩摩陣の|時に軍終て後頓死せしと見へたり豊久は家久が子也》入道希有に
【左丁】
死を出て徳川殿の御陣に郎等河上四郎兵衛忠元をそ
参らせ此度義弘おもはすも御敵となつて候事年来の
御芳志をわすれまいらするに似たりもつともこれ入道
か本意にあらすたゝ今御陣頭をまかりすき候によつ
て使者を参らせて案内を通し候ひぬくはしき事
をは帰国の後陳謝し申すへき所也といひすてゝ道遮
らんとせし野伏原を蹴ちらし〳〵播磨国住吉に至
て大坂にありし父子の妻子こと〳〵く取て船五十
余艘にとりのり日向国につきにけりさる程に加藤
肥後守清正関東の御方として同国宇土の城をせむ