伊那市×みんなで翻刻

コレクション: 内藤家資料 (1) 2

藩翰譜(八・上) - 翻刻

藩翰譜(八・上) - ページ 27

ページ: 27

翻刻

【右丁】 かまへて主の島津と戦ふ同き七月徳川殿山口勘兵衛尉 直友を御使にて鏃二千暑衣百領忠恒に給つて軍の やうをとはせ給ひ九月又寺沢志摩守廣高して嶋津に 加勢させ又山口を差下され主従か間をやはらけさせ給へ は源次郎降参しぬ明れは五年の秋兵庫頭入道義弘 石田三成にくみし美濃国関か原に出むかひ東国の 人々と軍し義弘散々に戦なつてすてにうち死 せんとしけるに猶子中務太夫豊久入道をいさめ我身は とつて返し時うつるまて戦てうち死す《割書:一説に舎弟と|いふいふかし》 《割書:島津家譜に中務家久は天正十五年薩摩陣の|時に軍終て後頓死せしと見へたり豊久は家久が子也》入道希有に 【左丁】 死を出て徳川殿の御陣に郎等河上四郎兵衛忠元をそ 参らせ此度義弘おもはすも御敵となつて候事年来の 御芳志をわすれまいらするに似たりもつともこれ入道 か本意にあらすたゝ今御陣頭をまかりすき候によつ て使者を参らせて案内を通し候ひぬくはしき事 をは帰国の後陳謝し申すへき所也といひすてゝ道遮 らんとせし野伏原を蹴ちらし〳〵播磨国住吉に至 て大坂にありし父子の妻子こと〳〵く取て船五十 余艘にとりのり日向国につきにけりさる程に加藤 肥後守清正関東の御方として同国宇土の城をせむ