翻刻
【右丁】
忠恒伏見に来て大御所に見参す十一年九月朔日忠恒
ふたゝひ伏見に来て大御所に見参すこの日御家号
御諱字賜て家久と名のる《割書:家忠日記追加にいつ〇大閤の家|号ゆるされて今迄は羽柴と名のる》
同き十四年春家久望請て琉球をうつ此年二月
廿一日南洋にうかみて大島徳島等の地に戦ひ四月朔日
那覇津に至り琉球の兵をうちやふり同き三日中山王
を生捕て本国に帰り此よしを注進す七月七日大御所
御教書をなされて彼国を家久にたまひ将軍家また
義久義弘家久に御教書給てその功を賞せらる
明る十五年八月八日家久中山王をくして駿河に
【左丁】
来り大御所に見参しそれより関東に趣き同月廿八日
将軍家に参る十六年十二月十九日義久入道龍伯卒
す七十八歳《割書:家忠日記追加にいつ創業記考異|には十六年正月廿九日卒すと云々》大坂両度の軍
に海上風穏ならすとてつゐに参らす《割書:此日家久妻子をた|つさへて関東に移る》
《割書:鎮西の大名妻子を関東にうつせし始にて将軍家の御感なゝめならす|これによつて諸役御免あるへきよしを仰下さるこれか島津か第一の》
《割書:奉公たるよし彼家|にていふ事なり》元和二年七月家久参議になさる同き
五年七月廿一日兵庫入道惟新卒す八十五歳《割書:慶長五年の後|籠居たりしと也》
家久寛永三年八月従三位権中納言に至り同十五年
二月廿六日六十歳にて卒す《割書:一説に六十|一歳といふ》
左中将兼大隅守光久は家久の嫡男寛永八年四月