翻刻
【右丁】
隆信かほろふへき端となるこそうたてけれ同十年六月
信生武田殿父子うたれたまひぬと聞て天下かならす
秀吉に帰すへき事をしりてはる〳〵使者をまいらせて
音信を通る《割書:南蛮帽子をたて|まつりしとなり》鎮西の国人等使まいらせし初
なれは秀吉大に悦ひ石田備中守を使としてみつから
文書て告らる《割書:龍造寺記に出此石田|たれにやしらす》同十二年隆信信生か諫
を用すして同国まて馬をうたんとてみつから五万余騎を
引率し高木郡に発向し島津か弟中務大夫家久か
為に一戦に利を失ひ島原のほとりにうたれ死す
《割書:隆信時に|五十六才》其子民部大輔政家いまた幼なく龍造寺か
【左丁】
家すてにほろひんとす家子郎等はかりていそき
信生を佐嘉の城にむかひ入れ/権(かり)に国中の事を行
はしむ信生佐嘉にありと聞てかたき続て国中に
攻入事を得す信生叔父親によつて幼主たすけて
みつから加賀守直茂とあらため名のりいかにもして
隆信か仇を報ひんとてつねに関白秀吉に使を
たてゝ九州違命の輩御誅伐あらんには政家直茂
先陣を給るへしとそ望ける同き十五年関白島原を
退治のため筑紫の地に渡り給ひし時直茂政家と
共に最初に御陣に馳参り先陣を給る直茂年頃の