翻刻
【右丁】
別当となり頼経の時に至て四代将軍の遺老当代の有職
にて凡将軍家の時式多くは此人の撰定し所也廣元の四男
毛利左近将監秀光始て安芸介に任し《割書:秀元【光ヵ】を新編纂図に|季元【光ヵ】につくる又毛利と》
《割書:名のる事東鑑を按するに廣元相模国毛利庄を|領せしとみゆ子孫等はしめてかくは名のりしにや》秀光か子孫安芸
国高田郡吉田庄地頭職に補せらる秀光十一代の孫備中守
弘光【元ヵ】当国高宮郡多治比郷に住し四人の男子あり嫡
子備中守興元二男少輔太郎元就三男少輔二郎元綱四
男上総介就勝興元早世して其子幸松丸八才にて家を継
十三才にて死す《割書:一説幸松丸七才に|て早世すといふ》元就就勝興元か遺領を
争ふ出雲国の守護尼子伊予守経久就勝に方人して
【左丁】
元就をうちほろほさんとす元就やかて吉田の城に楯籠て
其由を以て義稙将軍にうつたへけれは本領安堵の御判
を元就にこそ下し給けれ《割書:毛利家伝には此比元就三百貫の地を領|すといふ一説に興元の遺領三千貫の地》
《割書:也しとも|いふなり》元就又長門国に使たてゝ大内左京大夫義興に属
す《割書:これよりさき元就母の譲りをうけて多治比七十五貫の地を領し|三百余人を召あつめて猿掛山に要害構て住せしといふ也》はしめ
永正四年十月当国の守護武田太郎左衛門尉元繁吉川
駿河守興経と戦事ありしに《割書:吉川は当国山縣|新庄を領せし也》元就生年
十八歳吉川をたすけて武田か勢をうちやふり元繫と
くんて首をきる興経悦事かきりなく頓て其娘をもつ
て元就か妻となす天文九年八月尼子伊予守経久嫡男右衛門尉