翻刻
【右丁】
周防国にとゝめて豊後の大友守らせ我身は二男元春
隆景を打つれ出雲国に向ひ尼子と戦ふ事凡七年
晴久死して其子右衛門督義久つき永禄元年に及ひて
終に富田の城を攻おとし右衛門督義久降参す《割書:芸州長田の|延命寺に住》
《割書:して瑞閑と号す元亀年中尼子か一族孫四郎勝久出雲国にうち入|因幡伯耆等の国々かれにしたかひしにつゐ毛利かためにうち破》
《割書:られそのゝち播州佐用高月の城にたてこもり織田殿西国に|発向あらは在陣たるへしと申せしかと天正八年に毛利か為に》
《割書:うちまけ勝久并に舎弟助四郎通久自害す義久入道端閑|か子孫は毛利の家にあつていまは佐々木と名のるといふ》因幡
伯耆出雲隠岐石見合て十ヶ国みつから十州の大守と
名のりて年既に老ぬれは隆景元春大将とし西国四国
に師出し又備前の宇喜多叛きしをも子息等に攻させて
【左丁】
我身は安芸にそ住しける此人弓馬の道くらからさるのみならす
しきしまの道にも心をよせよめる歌秀逸の作多く三保【條】西殿
を判者として詠草一巻撰ひ大江朝臣元就詠草とて世の
人今も伝けりされは文武の名誉四海の中にあまねく中
にも人王百七代正親町院の御宇にあたつて弘治三年十一月
廿七日御践詐【祚】の事まし〳〵けれ共五畿七道一同にを【左に〇 み】たれ
三年を過る迄御即位の礼おこなはるへきやうもなかりしに
元就これを伝聞て破料【?】を調進し大礼既に成しかは其勧
賞として大膳大夫になされ菊桐の御紋下し給ひ又陸奥
守になさるこれは元祖廣元の先蹤を追れけるとそ聞へける