翻刻!江戸の医療と養生

コレクション: コレクション3

養生随筆 三冊(上・中・下) - 翻刻

養生随筆 三冊(上・中・下) - ページ 29

ページ: 29

翻刻

【右丁】 過(すぎ)て滋補(じほ)の薬を旨(むね)として大黄(だいわう)石膏(せきかう)恐(おそ)るゝ事 恰(あたか)も鴆毒(ちんとく)の如く 治術(ちしゆつ)迂遠(うえん)の蔽(へい)有しに享保(けうほう)年間(ねんかん)香(か)川 秀菴(しうあん)山 脇(わき)東洋(とうよう)吉益(よします) 東洞(とうとう)の輩(ともがら)始て傷寒論を宗(むね)として古方家(こはうか)と称(しやう)して彼(かの)滋補(じほ) の剤(ざい)を旨(むね)とするものを後世家(こうせいか)と謂て専(もつは)ら汗(かん)吐(と)下(げ)の法方(はう〳〵)を 行(おこなふ)て頗(すこぶ)る世に功(かう)ありしが亦 医家(いか)の子弟(してい)少年(せうねん)の輩(ともから)妄(みだり)に汗吐(かんと) 下(げ)の攻撃(かうけき)の剤(ざい)を投(とう)じて人を誤(あやま)ること鮮(すくな)からず亦 攻撃剤(かうげきさい)の蔽(へい) となる明和(めいわ)年間(ねんかん)より畑柳菴(はたりうあん)和田泰純(わたたいしゆん)の輩(ともから)攻撃剤(かうげきざい)の蔽(へい)を見 て復(また)後世(かうせい)の法方を採(とつ)て遂(つひ)に滋補(じほ)攻撃(かうげき)の間(あいだ)を折衷(せつちう)して其 宜(ぎ) を得たり安永(あんゑい)の頃(ころ)まては医学(いがく)に心を用て治術(ちしゆつ)の沙汰(さた)も 【左丁】 ありしに近頃は医学(いかく)大ひに衰(おとろ)へて人を死(ころ)すも見えす亦人を 生(いか)すも見えす唯(たゝ)常庸(じやうやう)のみなり天明の頃 彼(かの)明(みん)の呉有可(こいうか)の温(うん) 疫論(ゑきろん)本邦(ほんはう)に渡(わた)りしを荻野台州(おきのたいしう)訓点(くんてん)して世に弘(ひろ)まりしより近(ちか) 頃(ころ)の医家(いか)専(もつは)ら温疫論を唱(とな)へて傷寒(せうかん)をいふ事をしらす病人 熱(ねつ)稍(や)劇(はげし)く食も進(すゝ)み難(かた)きを見れは惣(すへ)て皆(みな)疫(ゑき)なりといふ素人(しらうと) も亦其 訳(わけ)をしらず疫なりと謂(い)ふ疫(ゑき)は役(ゑき)字(じ)の行編(きやうへん)を去(さつ)て病(やまひ) 冠(かむ)りをして疫字(ゑきじ)を作(つく)るなり役は賦役(ふゑき)の義にて官(くわん)より民(たみ)へ役(やく) を命(めい)せらるゝことにて今一 軒役(けんやく)に銀(ぎん)一 銭(せん)或は弐銭又は農民(のうみん)佃(た) 高(たか)一 石(こく)に銀何銭(きんなんせん)目(め)と家ごと戸(こ)ごとに役(やく)を受(うく)るか如く家ごと

現代語訳

【右丁】 過ぎて滋補の薬を主旨として、大黄・石膏を恐れることは、あたかも鴆毒のように恐れ、治療術に迂遠の弊害があった。享保年間に香川修庵・山脇東洋・吉益東洞らが初めて傷寒論を宗として古方家と称し、かの滋補の薬剤を主旨とするものを後世家と言って、もっぱら汗・吐・下の治法を行って、かなり世に功績があったが、また医家の子弟・少年らがみだりに汗吐下の攻撃の薬剤を投与して人を誤ることが少なくなく、また攻撃剤の弊害となった。明和年間より畑柳庵・和田泰純らが攻撃剤の弊害を見て、また後世の治法を採用して、ついに滋補・攻撃の間を折衷して、その適宜を得た。安永の頃までは医学に心を用いて治療術の議論もあったが、 【左丁】 最近は医学が大いに衰えて、人を死なせるのも見えず、また人を生かすのも見えず、ただ平凡なだけである。天明の頃、かの明の呉有可の温疫論が本邦に渡り、荻野台州が訓点を付けて世に広まってから、近頃の医家はもっぱら温疫論を唱えて傷寒を論ずることを知らない。病人に熱がやや激しく食事も進みにくいのを見れば、すべて皆疫だと言う。素人もまたその理由を知らずに疫だと言う。疫は「役」字の行偏を去って病冠を付けて疫字を作るのである。役は賦役の意味で、官から民へ役を命じられることで、今一軒の役に銀一銭或いは二銭、また農民は田高一石に銀何銭目と、家ごと戸ごとに役を受けるように、家ごと