翻刻
【右丁】
《割書:名のりほとりにはかくれなき もの也今さらあらため名のらん事|かなふへからす たゝ殿の御受領をあらためらるはきにて候といふ》
《割書:忠利これを聞て 年貢よく 納れ 公役をこたらす 神妙の事也|さらは汝はこの所の備後にこそあれ たゝそのまゝに候へとゆるしける》
《割書:凡世のおろかなる人はよしなき事に 人をくるしめ おのか威をたてん|とし 無益の事をつとめて有用の事をうしなふ此忠利は天性》
《割書:和にして愛ふかく其智またすくなからすけれは後かならす 栄ゆ|へきもの也と 仰られしと云々これを見て忠利の事推て知るへし》
嫡男讃岐守忠勝父に継く 寛永九年の春 大相国
薨し給ひ将軍家代をしりたまひしかは忠勝か年
来輔佐の功を賞し給ひ同九月十九日所領の地加賜
《割書:河越のほとりにて二万石 を給ひ|このゝち加恩度々にて十万石に成》同しき十一年 若狭国小浜
の城に移る《割書:十二万三千五百石余|越前小野の地を合て》正保のころ 大老の職に
補せられ四位の 少将に昇進し 年老ぬれは
【左丁】
明暦二年九月廿七日に 致仕し万治三年入道し
空予と号し寛文二年七月十二日七十六歳に
して卒す嫡子備後守忠利 寛永十二年初て
小老の職をうけて其職に任せしかいかなるゆへ
にや十五年十一月廿二日に職ゆるされて此後
病と称し出仕をもとゝめけれは末子修理太夫
忠直父かゆつりをうけて家をつく
大和守源忠栄は《割書:はしめ|越前守》讃岐守忠勝の嫡孫にて
備後守忠朝か男也寛文八年 叔父 修理大夫
忠直望み給ふて所領の地 をわかち あたふ《割書:一万|石》