翻刻
【右丁】
修理亮正澄か男豊後守正秋よつきと成寛文十一年
五月廿五日正秋かゆつりをうけて おのか本領と 共に合せ
領す《割書:九万|石》延宝元年十二月廿三日 執政の 職に補せられ
同き廿八日従四位下に叙す身いたわる所多くして
職に堪すと辞し申事やまさりし同き四年十月六日
職ゆるされ五年七月四日致仕す嫡子美作守正武譲り
をうけ《割書:九万石此うち一万石|を父か隠居料とす》その余の男等 所帯をわかちゆつ
らる《割書:二男七三郎正重 五千石のちに 志摩守に 任す 三男 長吉正房|二千石のちに 越中守に任す 四男鶴之助 二千石のちに》
《割書:主税と|申す》
【左丁】
青山
播磨守藤原忠成は近江国の住人青山三郎定俊か後胤
喜太夫忠門か息男也忠門はしめて三河国に来て額田郡
百々村に住して徳川殿の御家人にはなつてけり天正の十三年
忠成いまた藤七郎と申せしより竹千代殿の御傅となされ
《割書:台徳院殿|七才の御時》同き十五年寄騎の士廿五人を属らる《割書:久能衆と|いふこれ也》若君
御とし十一歳はしめて関白殿へ御見参の時御供して上洛し
叙爵して常陸介になさる明れは十八年関東に移給ひし時
武蔵国にして所領の地を賜ひ《割書:五千石一説相州|佐間といふ》慶長五年十一月
十八日播磨守と成る《割書:常陸介殿を|さけまいらせし也》同き六年二月上総下総両国